第36話 男と女はわからない

 女性の後ろ姿を見送りながら、港が呟く。


「今の女の子、宮井さんじゃないか?」


「ええっ!?」


 翼は沙知の顔をはっきりと見たことがなかった。沙知がカフェで真琴に告白をした後、一緒に出て行くのをちらりと見た程度だ。


 沙知らしき女性が走っていった方を見ると、真琴と亜美に声をかけて合流していた。


 三人を見つめていると、港が横から声をかけてくる。


「追いかけなくていいのか?」


「えっ!? いや、いいですよ」


 翼が断ると、港は一歩近づいてくる。翼の後ろにあるのはビルの壁だ。港は壁に片手を突いて、顔を近づけてくる。キスを交わせそうな距離だ。


「真琴は可愛いからな。こんな風に迫られるかもしれないぞ」


 華やかな顔に笑みを浮かべて言われ、一瞬、頭が真っ白になる。しかし、すぐに我に返って言った。


「そんなことあるわけないじゃないですかっ! どいてくださいっ!!」


 翼が抗議すると、港はあっさりと体を退けた。そのすきに、素早く港から距離を取る。


「帰りますっ!」


「そうか、残念だな。真琴たちが行く店に一緒に行こうと思ったのに」


「……!!」


 翼は思わず歯ぎしりした。


 なぜ、港はこうも人の心を動かすのがうまいのだろう。



 * * *



 土曜日のカフェは、それなりに人が多い。真琴がぼんやりとしていると、テーブルの向かい側に座っている亜美が言った。


「あれ、藍田さんと槙本さんじゃないですか?」


 少し離れた席を指し示す。真琴は心底驚いた。慌てて目を向けると、確かに港と翼だ。


 亜美の横に座っている沙知は、首を傾げて言う。


「会社の人?」


「僕と同じ部署の人ですよ」


 真琴の声に、亜美は砂糖菓子のように甘い声で言う。


「槙本さんと藍田さん、仲いいんですねぇ。そのうち付き合っちゃったりして」


「いや、あの二人が付き合うことはないと思うけど……」


 真琴は冷静な口調で言う。翼の初恋の相手、河野と港はタイプが全然違う。河野は爽やかな好青年だが、港は掴みどころがない青年だ。いくら三年経っていると言っても、好みが激変することはないだろう。


 しかし、亜美はやんわりと反論する。


「男と女なんだから、わからないですよ」


 その言葉は真琴の胸に、妙に突き刺さった。



 * * *



 夕方、翼が自宅に戻ると、携帯のランプが点灯していた。真琴から着信があったようだ。折り返すとすぐにつながった。


「真琴くん、どうしたの?」


「……寺川さんとは、デートじゃないから」


 開口一番、強い口調で言われて、翼は戸惑う。


「あ、うん、そうなの……?」


 要領を得ないまま翼が頷くと、真琴は説明し始めた。


「実は労働審判で、寺川さんの証言を使わせてもらおうと思って。それで今日、一緒に法律事務所に行って打ち合わせをしてたんだ」


 真琴の話によれば、亜美は、沙知の後任として入社してきたのだという。引継ぎ期間は一か月程度だったが、その間、佐藤が沙知にセクハラ発言をしていたのを聞いていたのだ。


 亜美は「自分にもいつか被害が及ぶかもしれない」と常に録音機を持ち歩いていた。そして、沙知たちの会話も録音していたらしい。


 これまでは報復が怖くて黙っていたが、亜美も佐藤には色々と思うところがあったようだ。


「そっか……。そりゃ、怖いよね」


 亜美は学校の授業で「柔道を習っていた」と佐藤に強調していたらしいので、どうにか被害は免れたようだ。しかし、佐藤と常に一緒に仕事をするのは居心地が悪いだろう。


 翼の言葉に、真琴は相槌を打ちながら言う。


「うん、でも、これで宮井さんの労働審判も進むかもしれないからさ。寺川さんが協力してくれて助かったよ」


 先日、真琴と亜美が会社で「嬉しい」と言いあっていたのは、「沙知に協力できて嬉しい」ということだったのだろう。


(そういえば、宮井さんとはどうなったんだろう……?)


 気にはなるものの、自分からは聞けないな、と思った瞬間。


「実はこの間、宮井さんに告白されたんだ」


 真琴の言葉に、耳を疑った。


 内心動揺しながらも、一番気になることを口にする。


「そ、そうなんだ。宮井さんにはなんて返事したの?」


「断ったよ」


 即答だった。


 沙知の心中を考えると申し訳ないが、やはりほっとしてしまう。しかし、それもつかの間のこと。


「翼ちゃんは? その……港さんと何かあった?」


 あったと言えば、あった。


 養子だと聞いたこと。今日に関して言えば、壁際に追い詰められたこと。しかし、どちらも真琴に言えるような内容ではない。そして、とっさに頭に浮かんだのが……。


「港さん、真琴くんが可愛いって言ってた!」


 翼が力いっぱい言うと、一瞬沈黙があった。


「……僕が?」


 電話越しなので、表情は見えない。だが、どう反応すればいいかわからない、という空気が感じられた。


 翼は精一杯明るく言う。


「うん、そう、真琴くんが! あ、でも、女の子に見えるって意味じゃないよ? あれは……」


 真琴が可愛い顔をしてるから「女の子に迫られるかもしれない」という警告だった。


(なんて言えないよ!!)


「えーと、何て言うか……」


 翼は焦ってごまかすが、言えば言うほどわけがわからなくなっていく。


 結局、微妙な空気のまま電話は終了した。



 電話を切った真琴は、安堵のため息をついた。


(翼ちゃんが言ってることはよくわからなかったけど……。付き合ってるわけじゃなさそうだな)


 ただ最近、港と翼の距離感が変わったと思う。昼ご飯を一緒に食べるだけではなく、お茶までするというのは、以前の二人の関係ではありえないことだ。


 だから、何かあったのかと思ったのだが、気のせいだったのだろうか。


 港が翼に告白したことを知った時は、驚いたし、焦りもした。ただ、翼が「港さんのことをそんな風に見たことはない」と言ったので、どこかで楽観視していたのだ。「あの二人が付き合うわけがない」と。


 しかし「男と女」なのだから、どうなるかなんて、誰にもわからないのだ。


 ただ、真琴はどう翼に踏み込めばいいのかわからない。三年前は勢いで告白したが、今は勢いで告白できる状況ではないと思う。


 仮に翼と付き合えたとして、佐藤の手から守り切れる自信がない。営業部の事務員が外出することはまずないから、ホテルに連れ込まれる可能性は低いだろう。しかし、セクハラは社内でも充分にありうる。


 外勤が多い真琴が、常に翼を守るのは難しい。翼を沙知のように危険な状況にさらしたくはなかった。


 だから、佐藤の処遇が決まるまで、動くのは得策ではないと思う。ただ、その間に港が翼を口説き落としてしまうかもしれない。


(どうしたらいいんだ……?)


 真琴は天井を見ながら頭を抱えた。



 月曜日の朝。ほとんど人がいない営業部の事務所で、港が一人仕事をしていた。真琴が来たことに気づくと、小さく笑みを浮かべながら言う。


「槙本さんは、反応が素直で可愛いな」


「……どういう意味ですか?」


 含みがある言葉に真琴が眉をひそめる。


「そのままの意味だ」


 港は、赤い薔薇を思わせる艶やかな笑みを浮かべた。

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