第35話 デートじゃない!

 キーンコーンカーンコーン……。



 土曜日の会社は、ほとんど人がいない。


 正午を知らせる鐘が響き渡る中、翼は営業部の事務所のドアを開ける。会社に忘れ物を取りに来たのだ。


 事務所には男性社員が一人いるだけ。パソコンに向かって仕事をしているようだ。


「今日の当番、藍田さんだったんですか」


 翼が問いかけると、港は顔を上げて頷いた。


 中山東工業株式会社の営業日は、基本的には平日のみだ。ただ、取引先には土曜日も営業している会社がある。その為、土曜日の午前中のみ、一人だけ男性社員が出勤しているのだ。女性社員が土曜出勤を免除されているのは、重量のある商品の運搬ができないからである。


 翼は忘れ物を取りにきた旨を告げて、席に向かう。机を探っていると、後ろから港が声をかけてきた。


「この後、何か用事はあるのか?」


「いえ、特にないですけど……」


 すると、港はパソコンをシャットダウンして言った。


「じゃぁ、昼、一緒に食べに行くか?」



 そして、二人がやってきたのは、会社から十分ほどの距離にある蕎麦屋だった。手打ち蕎麦が評判らしい。店は古い町家を改装したらしく、どこか懐かしい雰囲気だ。


「お待たせしましたー!」


 店員の大きな声と共に、注文していたざる蕎麦がやってきた。


 季節は初夏だ。まだ梅雨の季節ではあるが、今日は半袖を着てもいいほどの気候である。


「おいしいですねぇ。こしがあって、つるつるしてて」


 翼が蕎麦を食べながらニコニコと笑う。


「そうか、それは何よりだな」


 港は柔らかな表情で答えつつ、蕎麦をすすった。



 蕎麦を食べ終わり、温かい蕎麦茶を楽しむようになった頃。翼は口を開いた。


「藍田さん、なんか雰囲気変わりましたよね」


「そうか?」


 港は目を瞬かせながら言うと、翼は力いっぱい頷いた。


「はい、この間から雰囲気が柔らかくなったって言うか。とにかく、変わりました」


「家のこと話して楽になったっていうのは、あるかもな」


 港は長い指で湯呑を持ちながら言う。温かいお茶を飲んで心が緩んでいるのか、いつもよりリラックスした表情だ。


 翼は蕎麦茶を堪能しつつ言う。


「あの……藍田さんが、人が困った顔見るの好きな理由って、お母さんのことがあったからなんですか?」


「は? なんだそれは」


「この間、言ってたじゃないですか。お母さんが遊んでくれなかったから物を壊してたって。そしたら構ってくれたって。だから、人が困った顔見るのが好きなのって、お母さんが由来してると思ったんですけど」


 翼が真面目な顔で言うと、港は拗ねたような、不機嫌なような、何とも言えない表情になった。


 港は頬杖を突きながら、手を口元で隠している。でも、口は隠れていても、目は隠れていない。


 目は口ほどに物を言う。


 港の目は何だか照れているように見えた。


 今までとは違う一面が見える。


 謎めいた存在でしかなかった港を、人間らしいと感じた。



 * * *



 食事を終えて翼と港は店を出る。そして、しばらく歩き、とあるビルの前を通りかかった時のことだ。


「翼ちゃん?」


 声がした方に顔を向けると真琴がいた。ビルから出てきたようだ。


「真琴くん、どうしたの?」


 きょとんとしながら、答える。真琴は、翼の横にいる港をちらりと見ると複雑そうな表情を浮かべた。


「実は……」


 真琴が言いかけた時。


「紫藤さん、お待たせしましたぁー!」


 砂糖菓子のように甘い声と共に、可愛らしい女性がビルから出てくるのが見えた。


(あ、そうか! 今日って、寺川さんとの「お出かけ」の日……!)


 亜美の姿を見て、翼は思い出す。亜美は淡いピンクのワンピースを着ており、いかにもデートのような服装だ。それに比べて、翼は適当なカットソーにジーンズというスタイルで、いたたまれなくなる。


 亜美も、翼と港に気づいたようだ。


「あれ、藍田さん、槙本さん? デートですか?」


 さらりと出てきたデートという単語に、翼は内心真っ青になりながら否定した。


「ち、違いますっ!! 私は会社に忘れ物取りに来ただけです!」


「昼ご飯は一緒に食べたけどな」


 さりげなく付け足された港の言葉に、亜美はにこやかに答える。


「ごはんデートですかぁ。お二人とも仲いいんですねぇ」


(違うからっ! デートじゃないからっ!!)


 翼は涙目になりながら真琴を見る。無表情だ。いつもの穏やかな真琴と違うような気がして、なんだか怖い。


「じゃぁ、藍田さん、槙本さん。私達もこれからご飯食べに行くので。失礼しまーす」


 亜美はそう言うと、真琴の洋服の袖を引っ張って立ち去って行く。真琴は一瞬、翼をちらりと見たが、すぐに目をそらす。


(真琴くんと、寺川さん、やっぱりデートなの……?)


 翼は二人が去って行くのを見送ることしかできなかった。


 この世の終わりのような顔をして立ち尽くしていると、ビルからまた一人、二十代ぐらいの女性が出てきた。何だか見覚えがあるような気がするが、どこで見たのか思い出せない。


「あれ? 二人とも帰ったのかな……」


 そう言って、左右を見渡す。そして、女性は真琴と亜美が歩いていった方へと走り出した。

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