第34話 見えない愛情

 藍田家の中で、自分だけがよそ者。


 成長しても、その想いは港の中にずっとあった。


 たとえば、義弟の誕生日祝いの時は、家族は嬉しそうなのに、自分の時はどこかぎこちない。


 居心地が悪い。


 そして、港はいつからか「早く家を出て働きたい」と思うようになっていく。



 高校二年生の時、進路希望は「就職」だと養父母に伝えると、養父は言った。


「大学に行く気はないのか」


 あまりにも予想外の答えで、港は驚いた。そして、養父は尚も言う。


「成績がいいのに、大学に行かないのはもったいない。行く気があるなら、受験してみろ」


 

 港は地元の大学に進学することにした。学生時代にバイトをして貯金をし、卒業後は家から通えない場所に就職しようと決める。おそらく、養父の会社は義弟が継ぐだろう。養祖父の代から続く同族企業なのだから、義弟が継ぐのが筋だ。



 大学四年生の秋、家から通えない距離にある会社に就職が決まった。そのことを告げた時、家族の中で一番悲しそうな顔をしたのは義弟だった。


「兄貴、出て行くのオレのせい?」


 不安そうな表情の義弟に、港は笑って横に首を振る。何も言わなくても、養父母と港のぎこちない空気を、小さい時から察していたのだろう。


 義弟は血の繋がりこそないものの、港を本当の兄のように慕ってくれていた。年が離れているせいか、喧嘩になることも少ない。だからこそ、離れることを心から寂しいと思ってくれているのだろう。


「一人暮らししてる友達が多いからな。俺も家を出てみたいんだよ」


 それは「事実の一つ」でもあった。演劇経験者にとっては、これぐらいの即興芝居はお手の物だ。



***



 家を出てみて、親のありがたみに気づく。


 それは一人暮らしを始めたら、誰もが体験することだろう。


 港は、ずっと親からの愛情が薄いと思っていたが、愛情をかけてくれていた部分もあったのだと気づく。


 たとえば、毎日の食事。


 一人暮らしをするようになってから、しばらくは料理に慣れず、近くの定食屋に通っていた。そして、カウンター席に座っているとおかみが声をかけてきたのだ。


「近くに住んでるの?」


 六十代ぐらいの、目じりにしわが寄った女性だった。港が「仕事で最近引っ越してきました」と言うと、おかみは笑って頷いた。


「ごはんって、愛情だからね。たくさん食べて頑張りなさい」


 そう言って、おかみは作業に戻っていった。



 ごはんは、愛情。



 思えば養母は、港が弁当を必要とする年齢の頃は、きちんと作ってくれていた。


 施設にいた時「年上のお兄ちゃん」が「ご飯が毎日食べられるのって、いいよな。おれのお母さん、朝ご飯も、お弁当も作ってくれたことないよ」と言っていたことを思い出す。


 お兄ちゃんは、毎日ご飯を食べられなかったのだ。


 しかし、港は食べていた。


 ずっとぎこちない親子関係だった。しかし、少なくとも食べさせてもらえていたのだと気づく。


 百万単位の学費がかかっても、大学に通わせてもらえていたことに気づく。


 

 愛情は、義弟よりは薄かったのかもしれないが、ゼロではなかったのだ。



***



 月夜の下、車が走り抜けていく。周辺のオフィス街には、まだ明かりがついている場所が多々ある。


 港は、真剣な顔で聞き入る翼に微笑んだ。


「社会人になってからだな、親との関係がちょっと変わったのは」


「そうなんですか?」


 翼が首を傾げると、港は頷きながら言う。


「実家に帰省したら、俺が好きなもの、母親が作ってくれてるんだよ。だから、俺もありがとうって言えるようになった。離れたことで、お互いに変わったのかもな」


 柔らかな夜風が吹き抜け、ざわざわと街路樹の木々を揺らす。


 翼の目から、なぜか涙がこぼれた。


「おい、どうした?」


 港は少し驚いた様子だ。


 翼は慌てて涙をぬぐいながら言った。


「すみません……。なんか、わかるなぁって思って。私、三人姉弟の真ん中なんで、親からの愛情が薄いなぁって思ってたことあるんですよ。お姉ちゃんは初めての子供だから手をかけてもらってるけど、私は二番目だし。弟は初めての男の子だから、やっぱり手をかけてもらってるなぁって」


 だけど、港の話を聞いて違うのだと思った。


「ごはん、ちゃんと作ってもらってる。それは愛情なんだって、聞けて、よかったです」


 つっかえながら言うと、港はいつもらしからぬ優しい笑みを浮かべた。


「槙本さんは、ちゃんと親に愛情をもらってる」


「え? 何でですか」


 翼がきょとんとした顔をすると、港は即答した。


「自分の感情に素直で正直だ。俺みたいに屈折してない。そういう子は、親からの愛情をちゃんともらってるんだよ」


 その言葉は翼の心に、深く浸透していった。心がじんわりと暖かくなって、再び泣きそうになる。


 でも、と翼は思う。


「藍田さんも、私にタイピングのこと教えてくれたりしましたし……。人のことを気にかけられるのって、やっぱり愛情をもらってきた証拠だと思います」


 そう言うと、港は少し目を見開いた。そして、今吹いている夜風のように、柔らかな笑みを浮かべる。


「……そうだったらいいな」


 見たこともない港の表情に、思わず目を奪われる。


 翼はどぎまぎしながら言った。


「そうですよ、きっと」


 街路樹の木々が、ざわざわと音を立てた。



***



 月夜の下、笑いながら帰っていく翼と港を見つめる、一人の青年の姿があった。


(港さんがあんな笑い方するなんて珍しいな……)


 真琴は港の表情を見ながら思った。いつもの謎めいた笑みではなくて、今日は珍しく柔らかな表情だ。


 隣にいる翼も、楽しそうな笑顔を浮かべている。真琴の心が、火を押し当てられたように熱くなっていくのを感じた。


 自分もいい加減覚悟を決めて、答えを出さなくてはいけないだろう。


「まずは寺川さんと出かける日、からだな……」


 ため息のように吐き出された真琴の声は、夜空に溶けて消えた。

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