第31話 変化と心を潤す存在

 亜美は少し驚いた様子だった。しかし、すぐに砂糖菓子のように甘い声で「お疲れ様です」と言う。可愛らしい笑顔が、何だか怖い。


「あのぉ、槙本さんって彼氏いるんですか?」


 唐突に訊かれて、翼の思考が一瞬停止する。返答を待つ亜美に向かって、翼は気まずさでいっぱいになりつつ、口を開いた。


「いないです」


 自分で言っていて悲しくなってくる。そして、なぜ亜美はこんなことを訊くのだろう。 


「て、寺川さんは、いるんですか」


 動揺しながら訊くと、亜美は大きな目を瞬かせた。夕焼けの光を受けて、亜美の目が強く輝いたように見えた。


「彼氏になってほしい人はいます」


 普段のふわふわした口調とは全然違う、強い口調で驚いた。翼は何も言えずに、亜美のかわいらしい顔を見つめる。


「じゃぁ槙本さん、私、行きますね」


 まるで宣戦布告のような、不敵な笑顔を浮かべて立ち去って行った。



(い、一体何なの!?)


 翼は唖然としてしまった。


 ただ、真琴と亜美は、付き合っているわけではないらしい。それがわかって安心する。


 しかし、土曜日はデートなのだろうか。他の用事なのだろうか。全くわからない。


 真琴が沙知になんと返事したのかも、わからないままだ。


 翼は身動きを取れないまま、周りの状況がどんどん変化していく。


(私だけ、前に進めてない……)


 まるで自分だけが世界に一人、取り残されたような気持ちになった。



 営業部の事務所に戻ると港に「どうした」と言われた。今、事務所にいるのは港だけだ。


「いえ……何でもないです」


 翼が、ぼそぼそとした口調で言う。この人はなぜこうも「変化」に敏感なのだろう。


 港は一瞬、口元に手を当てて考え込むと、静かな声で言った。


「真琴にフラれたか」


「フラれてませんっ!!」


 思い切り否定してしまい、ハッとする。これでは真琴のことが好きだと全面的に認めたことになってしまうではないか。


 港は、翼を見ながらおかしそうに笑っている。


「……何ですか?」


 翼が気まずく思いながら尋ねると、港は微笑ましそうな目をして言った。


「素直だなと思って」


「……そうですか?」


 再会した当初は、真琴に可愛くない言い方をしてしまった。それに、真琴に告白したくても、佐藤の「邪魔」が怖くて言えない臆病者だ。


 翼が納得していないことを察したのか、港は尚も言う。


「槙本さんも、真琴も性格に裏表がないだろう。羨ましいよ」


「羨ましい……ですか?」


 なんとも港らしくない言葉だ。翼の中に意外な気持ちが広がっていく。


「藍田さんは、素直になりたいんですか?」


 翼が何の気なしに口にすると、港は虚を突かれたような顔をした。そして、しばらく黙り込む。


(どうしよう。何かまずいこと訊いたかな?)


 翼が内心焦っていると、港は湖面のように静かな口調で言った。


「……そうかもな」


 短く言われたその言葉は、どこか寂しげに聞こえる。だけど、翼にはそれ以上踏み込むことができなかった。



 営業部の事務所のドアが開く。真琴が帰ってきたようだ。


「翼ちゃん、仕事終わった?」


「ごめん、もうちょっと。締め日が近いから、色々処理があって」


 締め日は取引先の指定伝票で売り上げを記入するなど、色々とやることが重なるのだ。


 変質者につけられて以降、真琴か港の手が空いていたら帰り道は送ってもらう、ということになっていた。だけど、仕事の後、疲れているのに申し訳ない。なるべく早く終わらせなくては。


 そんな翼の心を見透かしたように、真琴は笑顔で言う。


「焦らなくていいから、ゆっくりやって」


「……ごめん、ありがとう」


 真琴の言葉がありがたくて、泣きそうになる。


 社会人になってから一か月が過ぎ、「なんで私はこんなに仕事が遅いんだろう?」という想いにとらわれることが多い。


 翼には社会という場所が広い砂漠のように思える。そんな中で真琴の言葉は、水のように心に浸透する。社会という砂漠で乾ききった心を、優しく潤してくれるように思えるのだ。


(もしかして、港さんには「乾いた心を潤してくれる」人がいないのかな?)


 ふとそんなことを思った。



 一時間後、翼の仕事が終わった。真琴も港も「送る」と言ってくれている。どちらにお願いするか、翼は迷った。


(さっきの寺川さんのことも気になるけど……)


 翼は、さきほど見せた港の寂しげな様子が気にかかっていた。



 女性として、真琴と向き合うか。


 人として、港と向き合うか。



「じゃぁ、今日は……」


 翼は迷いに迷った末、口を開いた。

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