第29話 進む勇気

 衝立越しに聞こえてくる沙知の言葉は、緊張感に満ち溢れていた。


「本当は紫藤くんに、彼氏のフリじゃなくて、彼氏になってってずっと言いたかった。でも、同じ会社だし断られるのが怖かったの」


 翼の心の中で、焦りと不安がマーブル模様のように混ざり合う。体が緊張で震え始め、同時にこわばるのを感じた。


 真琴はどう答えるのだろうか。聞きたくない。でも、聞きたい。矛盾する気持ちを抱えながら、翼はじっと耐える。


 衝立越しでもわかる、重々しい空気。


 痛いほどの沈黙の後、真琴は一つ一つの言葉を慎重に選ぶように言った。


「僕とは付き合わない方がいいと思います。佐藤部長に『今度、彼女ができたら邪魔してやる』って言われてますから」


「え……?」


 沙知にとっては予想外の返事だったようだ。しばらく無言になっていたが、やがて口を開く。


「私、もう会社辞めてるから大丈夫だと思うよ。それに、労働審判になっているんだもの。これ以上、トラブルを起こすはずがないわ」


 もっともな言い分だ。


 翼は同意しながらも、心の中が嵐のようにざわめくのを感じた。


(佐藤部長が今、最も「邪魔しにくい」女性って、宮井さんなのかも……)


 真琴にアプローチをしている女性は、社外にもいるかもしれない。そう思っていたが、元社員と言う名の「社外の女性」は予想外だった。


 沙知の言葉に、真琴は慎重に答える。


「宮井さんがそう思ってても、あの部長は何するかわかりませんよ。用心するに越したことはないです」


 すると、沙知は小さな声でぽつりと言った。


「心が壊れそうなの」


「え?」


「誰かと争うって、普通の悩みの十倍ぐらいの心の負荷がかかる。毎日が苦しい。でも、こんな状態じゃ、転職活動もできない。……誰かに傍にいてほしいの」


 衝立越しに聞こえる沙知の声はひどく苦しげに聞こえた。


 今、会社員として毎日働いている翼には、沙知の苦しみは想像することしかできない。だけど、一人暮らしをしているからわかる。孤独を感じる時、誰かに傍にいてほしいと思う気持ちが。


 一方で、真琴に恋をしている立場としては「それを理由に迫らないでほしい」と思ってしまう。


 翼の心の中に、二つの対立する意見が生まれる。どちらも本心だった。


 真琴は、どう答えるのだろうか。


 耳を澄ませていると静かな声音が聞こえた。


「……宮井さん、そろそろ混んできましたし、出ましょうか」


 二人が席を立つのを気配で感じた。


 思わず追いかけたい気持ちに駆られる。しかし、注文の品が来ていないので席を立つことはできない。


 真琴が、沙知にどんな答えを出すのか。


 何もわからないまま、その場に留まることしかできなかった。



 数分後、注文していた品が運ばれてきた。


 ワンプレートに、ご飯とサラダ、ハンバーグとエビフライが乗った、おすすめランチ。しかし、心と体がこわばって、全く味わうことができない。デミグラスソースがかかったハンバーグが、喉元を通り過ぎていく。


(どうしよう……。私も、もう思い切って告白すべき?)


 しかし、「僕と付き合わない方がいい」と断っていたことを思い出す。翼にも同じことを言う可能性が高い。沙知は佐藤の手の届かない場所にいるが、翼は佐藤の手が届く場所にいる。今、告白しても断られる可能性の方が高いのではないか。


 気になったのは、真琴が沙知に「傍にいてほしい」と言われた時、はっきりと断らなかったことだ。翼には「断れなかった」という印象だった。そして、唐突に、真琴の高校時代の話を思いだす。


 真琴と港が「付き合う」ことになった経緯だ。


 演劇部の人間関係で悩んでいた真琴に、港は「俺が君の居場所になる」と言った。真琴は一度は断ったものの、悩みは全く解決しない。そして、最終的に「支えたい」と言った港の手を取ることを選んだのだ。


 もちろん、真琴と沙知が抱える悩みの種類は違う。しかし、真琴が悩んでいる沙知を突き放せるとは思えなかった。


(真琴くんに告白したい……)


 でも、断られるのが怖くて言えない。もし、成功しても佐藤に「何かされたら」という不安も付きまとう。


 だけど、翼が迷っているうちに、真琴と沙知が「付き合ってしまう」かもしれない。


 真琴は同性愛者ではないのに、港の手を取ることを選んだのだ。最初は恋愛対象ではなくても、沙知と「付き合う」可能性はある。


(どうしたらいいの?)


 進みたくても、進む勇気を持つことができない。


 一人食事をとりながら、翼は途方に暮れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー