第28話 審判の始まりと長い一か月

 その日、地方裁判所の横にある弁護士会館に、一人の女性の姿があった。


 宮井沙知だ。以前は髪を茶色く染めていたが、労働審判があるので黒染めをした。化粧も控えめにしている。


 スーツ姿の沙知は、弁護士の有田洋子に「待ち合わせ」として指定されたロビーに向かう。建物こそきれいだが会館の中は、ぴりぴりとした空気だ。


 有田と落ち合うと、申立をした内容と、証拠書類についての再確認が行われる。沙知の申し立て内容に対する、会社側からの「答弁書」も届いていた。沙知の申し立てをことごとく否認する内容だった。


 否認するだけならまだいい。しかし、会社からの答弁は「セクハラではなく『沙知が誘ってきたから』」だった。これほどの屈辱は生きてきた中で初めてだ。


 法律を武器に争うことは、沙知の予想以上に精神に負担がかかる。早く終わってほしい。それが本音だった。そして、今日、やっと事件解決のための第一回期日がやってきたのだ。退職したばかりで仕事をしていない沙知にとっては、期日が来るまで、一日千秋のように感じた。


「緊張します……」


 沙知が手を握りしめて言うと、有田は「そうだよね」と言った。


 有田は三十代後半の弁護士だ。日本労働弁護団に属し、労働事件を数多く手掛ける若手のホープでもある。有田は沙知の悩みに寄り添い、熱心に動いてくれた。この人が担当の弁護士になってよかったと思う。


 そして、沙知は有田と共に、裁判所へ向かった。



 指定された部屋に入ると、労働審判官(職業裁判官)と労働審判員、そして、中山東工業株式会社の人間が来ていた。


 会社側の出席者は、弁護士らしい人間が二人と、セクハラ事件の当事者である総務部部長の佐藤、そして、経理部長の横田だった。


 沙知は会社相手に訴え、損害賠償を求めていた。労働審判では佐藤個人を訴えることはできないからだ。経理部長が来ているのは、損害賠償の話があるからだろう。


 なるべく佐藤を視界に入れないようにしながら、沙知は会社側の人間に目礼する。佐藤に会うのは、本当に嫌だったがどうしようもない。


 そして、一つのテーブルに労働審判官、申立人である沙知と有田、相手側である会社側の人間が座り、労働審判が始まった。


 労働審判官が沙知に質問をし、うまく答えられないところは弁護士である有田がフォローする。


 一通り質問が終わると今度は佐藤に対し、労働審判官が質問する。


 沙知の訴えを一貫して否認する会社側に、有田は新たに提出した証拠資料について触れる。


 真琴が、沙知に渡した録音データだ。


「紫藤くん、宮井さんがセクハラされたことは黙っておきなさい」


 という会話から始まっている。


 真琴が、営業部の甲斐田部長から呼び出された時に、ひそかに携帯電話で録音したのだ。何かの役に立つようにと。


 しかし、これに関しても会社は「でたらめだ! 申立人の偽造だ!」と言って、全く認めない。


 結局、第一回期日では決着が付かず、第二回期日に持ち越されることになった。



 第二回期日は、約一か月後。



(一か月かぁ……長いな)


 風の噂で結果を聞いた翼は、うなだれた。一回で解決するのは難しいとは思っていたが、やはり決着がつかなかったようだ。


 女性用ロッカーでは、社員たちが噂話を口々にしている。


「紫藤くんが宮井さんに協力してるって話だけど」


「え、そうなの?」


 真琴の名前に嫌でも反応してしまう。真琴に対して悪意が向けられていないのがせめてもの救いだ。社員たちの認識は、真琴ではなく佐藤がセクハラをしたのではないか、という見方に傾いてきているようだ。


 制服に着替える翼の耳を、噂話が通り過ぎていく。しかし、見過ごせない……「聞き」過ごせない話もある。


「紫藤くんって、今でも宮井さんと連絡取ってるの?」


 沙知にとっては、真琴は会社側で唯一味方になってくれる人間だ。労働審判が終わるまで、都度連絡を取り合うことはあるだろう。


 そう思って、これまで特に疑問視していなかったのだが、この時、翼は妙に胸がざわめくのを感じた。



 数日後の休日、翼は気分転換でカフェにやってきた。自宅から電車で三十分ほどの距離にある、ショッピングモール内のカフェだ。


 翼が案内された席は、隣の席とは半透明の衝立で仕切られていた。


 メニューを眺め、この店のお勧めらしい、ランチセットを注文する。そして、ランチを待ちながらぼんやりしていると、衝立の向こうから、女性の声が聞こえてきた。


「シドウくん、ありがとう。色々協力してくれて」


(えっ、シドウ!?)


 隣の席から聞こえてきた名前に、翼の鼓動が思わず跳ねる。


「いえ、僕にできることがあれば何でも言ってください。一番大変なのは宮井さんですし」


 声を聞いた瞬間、わかってしまった。隣の席に座っているのは真琴だ。そして、一緒に座っているのは宮井沙知。


(な、何かとんでもないところに来ちゃったかも……)


 心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、耳をそばだてる。もう注文は済ませてしまったので、店を変えることもできない。


「あのさ紫藤くん、彼氏のフリしてくれたでしょ?」


 沙知の声は緊張ゆえか、少し震えているように聞こえた。その声に翼の心臓が妙な音を立て始めた。


 嫌な予感がする。


 そして、しばらくの沈黙の後、沙知は思い切ったように言った。


「紫藤くん、フリじゃなくて、本当の彼氏になってくれないかな?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー