第26話 彼と彼女の「熱」

 携帯電話を通して聞こえる真琴の声は、普段とは少し違っていた。


「翼ちゃん、大丈夫? 何かあった?」


 訊かれた瞬間、さきほどの恐怖を思い出す。自転車をどれだけ漕いでも、執拗に追ってくる気配がした。携帯を持つ手が震える。


「実は……家に帰る時に、後をつけられて……」


「ええっ!?」


 驚く真琴に、一条駅に戻って河野と港に会ったこと、港のアドバイスで今からタクシーで帰ろうとしていることを話した。


「翼ちゃん、今一人? タクシーはすぐ来る?」


 心から翼を案じていることがわかる。それが嬉しかった。


「大丈夫だよ。駅前にタクシー乗り場あるし」


 本当はまだ少し不安だが、翼は笑いながら答える。真琴と話したからなのか、不思議と体の震えもおさまった。


 もう、駅の改札は出たし、ロータリーはすぐそこだ。目の前の車道をバスとタクシーが通り過ぎていく。


 真琴は少し考えた後、強い口調で言った。


「じゃぁ、翼ちゃんが家に着いたら電話するよ。何分ぐらいで着く?」


「えっ、タクシーだし大丈夫だよ」


 よっぽどのことがない限り事件は起きないだろう。


 しかし、真琴は譲らない。


「僕が心配なんだ」


 強い「熱」を感じる声に、翼の心臓の鼓動が速くなる。


 気が付くと、小さな声で答えていた。


「……十分ぐらいで着くと思う」


 心の中に、ろうそくのような赤い熱が生まれるのを感じた。


 

 翼が住んでいるハイツに、タクシーが到着したのは数分後のことだ。きょろきょろと辺りを見渡し、不審者がいないことを確認する。


 自宅の扉を開け、真っ暗な空間を見た時、一瞬、恐怖を感じた。何かが出てくるのではないか。恐る恐る、電気のスイッチをつける。


 何も出てこなかった。


(あぁ、よかった……。真琴くんに電話しよう)


 そして、カバンから携帯を取り出そうとすると、振動していることに気づいた。


「もしもし、真琴くん? うん、今帰ってきたよ」


 翼がほっとしながら言うと、真琴は心底安心したようだった。


「よかった。……翼ちゃん、防犯ブザーとか持ってる?」


「え? 持ってない」


 すると、真琴は防犯グッズについて教えてくれた。たとえば、小型の催涙スプレーなどもあるらしい。ネットでも購入できるから、一つ防犯グッズを持っておくといいかもしれないとのことだった。


 今まで自分には関係がないと思っていた防犯グッズ。しかし、今日の事件で、購入する必要があるかもしれないと思わされる。


「ありがとう。色々調べてくれて」


 翼がそう言うと、顔は見えないが、真琴の気配が喜びに満ちたものになった気がした。



 真琴との電話が終わった後、翼は防犯グッズをインターネットで購入することにした。


(自分の身は自分で守れるようにならなきゃ……!)


 女という存在として「男」とどう向き合い、生きていくか。答えはまだ出ない。しかし、たとえ力なく弱い存在であっても、できることはあるはずだ。



 * * *



 翌日、出社すると港に「昨日は無事に帰れたか」と訊かれた。港と顔を合わせるのは、翼としてはまだ気まずい。


「おかげさまで……」


 伏し目がちに答えると、近くにいた美奈が「何かあったの?」と訊いてくる。


「実は昨日、帰りに後をつけられたんです」


 なるべく深刻にならないように明るく言う。しかし、美奈は「ええっ、大丈夫だったの!?」と驚いた様子だ。そして、驚くべきことを言った。


「ちょっと、藍田くん。槙本さんのこと、しばらく送ってあげなさいよ」


 冗談なのか、本気なのかわからない口調だ。しかし、本気だったら困る。翼は慌てて言った。


「川合さん、大丈夫ですっ!! 会社周辺はオフィス街ですし!」


 心の中が焦りでいっぱいになる。


 昨日、翼は港からの告白を、丁重にお断りした立場だ。港自身は「覚えておいてくれ」と言っているが……。今のところ、応えるのは難しい。


 翼の焦った声に何を感じたのだろうか。港がにこやかに「俺はかまいませんけど」と言う。


「い、いや、そんなご迷惑をかけるわけには……」


 翼は遠慮がちに言った。心の中を冷や汗が伝っていく。


(港さんと二人きりになったら、何を話したらいいの!?)


 そう思った時だ。


「僕が送ります」


 強い意志を感じる声に振り向くと、真琴が立っていた。

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