第25話 女という存在として

(交番に行こう)


 翼は恐慌状態に陥る中で、頭を働かせる。もしも変質者だとしても、さすがに交番まで入ってこないだろう。


 自転車を漕ぐスピードを上げる。後ろから付いてくる自転車のスピードも上がった気がした。


 やはり、ついてきているのだ。


 恐怖が募る。


 必死で自転車を走らせると交番の明かりが見えてきた。後続の自転車の気配が、消えた気がした。今まで後ろを振り返る余裕もなかったが、初めて振り返る。


「誰もいない……」


 後ろには闇が広がっているだけだった。そして、前を見ると交番はあったものの、不在のようだ。


 誰もいない所にいるのが怖くて、翼は再び自転車を走らせた。



 自転車を駐輪場に置いて、真琴に電話をかける。しかし、繋がらなかった。


 一人で暗い道を帰りたくない。



 翼は迷った末、一条駅に戻ることにした。



「槙本さん、どうしたの?」


 一条駅の改札近くにある、駅事務所。


 翼は河野の顔を見た瞬間、安堵するのを感じた。


「実は、変質者につけられたんです。交番は不在だったし、家に帰るのも怖くて」


 翼が力ない声で言う。すると、河野は深刻な表情で言った。


「しばらく、女性だってわかるような服装は、控えた方がいいかもしれないね」


「スカートを履かない方がいいっていうことですか?」


 翼が確認するように言うと、河野は頷いた。そして、周りを少し見渡すと、小声で言う。


「おれもバーに勤めてた時、つけられたことがあったから」


 河野が勤めていたのはゲイバーで、女装をして働いていたのである。


 変質者が身体上の性別ではなく、見た目の性別で判断していることに翼は衝撃を受けた。


「槙本さん、誰か近くに泊めてくれそうな友達とかいないの?」


 その言葉に「いません」と首を振るしかなかった。友人は地元にしかいない。同性で頼れる人と言えば、会社の先輩の川合美奈だろうか。しかし、こんな夜遅い時間に呼び出すのはさすがに憚られた。


 河野と翼が悩んでいると、ふいに声がかかる。


「槙本さん、何してるんだ?」


 驚いたような表情をした港が、改札機の前に立っていた。



 結局、翼は港と一緒に、自宅の最寄り駅まで帰ることになった。電車に揺られながら、港は「先生」のような口ぶりで言う。


「今日はタクシーで帰れ。後、念のために警察にも届けておいた方がいい」


「……わかりました」


 一人暮らしの身で、タクシーなんて贅沢だ。しかし、今日ばかりはそうも言っていられないだろう。お金よりも身の安全の方が大事だ。


 翼のカバンの中で、携帯が震える気配がした。


「あ、真琴くんだ……」


 翼が思わずつぶやく。さきほど電話した時は不在だったので、折り返してくれたのだろう。


「出るなよ」


 港の言葉に、翼は無言で頷いて口をとがらせる。電車のマナーもわからないほど子供ではない。


 翼を横目で見ながら、港は静かに言う。


「……女性の一人暮らしは、こういう時大変だな」


「まぁ、望んで始めたことですし。いい経験ですよ」


 翼は笑いながら言った。


 実家にいたら自立できない。そう思って、あえて遠い場所に就職することに決めたのだ。まさか、こんなことになるとは思わなかったが。


「寂しくなったりはしないか?」


 港の言葉に、目を瞬かせる。まさかそんな言葉を聞くとは思わなかった。翼は、少し考えながら口にする。


「最初は寂しいって思ってましたけど、今は仕事で必死なので……。なんかもう、慣れちゃいましたね」


「それはよかったな。一人暮らし始めたら、最初は皆寂しいって思うから」


 そう言う港の横顔は冷静で、寂しいという感情とは無縁のように思える。しかし、翼はなんとなく気になり、疑問を口にしていた。


「藍田さんでも、寂しいって思ったりします?」


 そう訊くと港は、今までに見たこともないような、まるで隠し事を見つけられた子供のように、驚いた顔をした。


 しかし、次の瞬間、ふと口元を緩めて笑う。


「……たまにはな」


 その返事は、翼にとって意外なものだった。港が「寂しい」という感情を翼にさらけ出したことにも驚いた。


(結構、人間らしいところもあるんだな……)


 港の横顔を見ながらそんなことを思った。三年前は、翼を追い詰めてくる「苦手な人」でしかなかったが、新たな一面が見えたような気がした。



 翼の最寄り駅に電車が到着する。車掌のアナウンスと共にドアが開いた。


「ありがとうございました」


「あぁ、気を付けて帰れよ。あと……」


 電車を降りようとする翼に、港は早口で言った。


「今日言ったこと、覚えておいてくれ」


 翼の頭が一瞬真っ白になった。


 そうだ。


 返事をしなければいけない。


「あ、ああああの、私、他に好きな人がいるんです!」


 うろたえながら遠回りな断り文句を口にする。しかし、港は笑みを浮かべて言った。


「知ってる」


「え?」


 翼が、港の顔を見上げた瞬間。


「扉が閉まります、ご注意ください」


 ホームに車掌のアナウンスが響き渡り、翼は慌てて電車を降りた。そして、港に無言で頭を下げ、全力で走り去った。



 駅の改札を出た翼は、息が上がっていた。


 ホームを走り抜けてきたからなのか、港の言葉に動揺しているためなのか。よくわからない。


 夜風が、熱く火照った体を冷やしていく。


「覚えておいてくれ……か」


 翼が「好きな人がいる」と言っても、余裕のある表情で「知ってる」と言っていた。おそらく真琴に想いを寄せていることは、わかっているのだろう。それでも「覚えておいてくれ」と言っているのだ。


(港さん、三年前、真琴くんのことなかなか諦めなかったもんなぁ……)


 まさか、三年経って「港に想われる」立場になるとは思いもしなかった。


 ボーイッシュな顔立ちゆえに、自分は恋愛には縁遠い人間だと思っていた。実際、この三年は、恋愛とはあまり縁がなかったのである。


 長年、男子に間違えられてきた翼には、どこか「女である」という意識が薄い。しかし、今日は、自分が女であると意識せざるを得ない、いろんな出来事があった。


 港に告白されたこと。


 真琴から沙知の事件を聞いたこと。


 帰りに変質者につけられたこと。


 これらの出来事があって実感した。


 翼自身がどう思っていても、自分はやはり「女」という存在であるのだと。


 女として「男」という存在とどう向き合っていくか。すぐに答えが出るものではないが、考えなくてはいけない。特に、変質者に関しては、急いで対策を取らなくてはいけないだろう。



 ふいに、カバンの中の携帯が振動する。


「もしもし……?」


 翼が誰よりも「女」として向き合いたい人からの電話だった。

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