第23話 争う苦しみ

「え、クビ? でも、そういう報復ってダメなんじゃないの?」


 翼が気まずい空気を破るように言うと、真琴は静かな表情で言った。


「だめだろうけどね。でも、もしかしたら勤務成績不良とか、適当な理由つけて解雇される可能性もあるし」


「ええっ、真琴くんそれでもいいの? っていうか、私は嫌だよ……」


 翼は、真琴が退学した時のことを思い出して泣きそうになる。またあんな「別れ」をしなくてはいけないのは嫌だ。


 しかし、真琴は翼を安心させるように笑う。


「まだクビになるって決まったわけじゃないよ。もしそうなったら、労基署か弁護士に相談してみる。日本労働弁護団って言って、労働者の味方の弁護士もいるみたいだし」


「へー、そんなのあるんだ」


 感心していると、真琴は頷きながら、再びソフトドリンクに口をつける。


「もう宮井さんみたいな人を出したくないからさ。僕にできることはしたいし」


「そうだね……。それにしても宮井さん、何で辞めてから訴えてきたんだろう?」


 セクハラをされて会社に居づらかったのはわかる。しかし、訴えるなら退職してからではなく、在職中でもよかったのではないかと思ってしまう。


 翼が首を傾げていると、真琴は携帯を取り出した。沙知からのメッセージを見ているのだろうか。


「うーん、セクハラされてたことを知って、宮井さんのご両親が訴えろって言ったみたいだね……」


 真琴が苦虫を噛み潰したように言う。


「娘がセクハラされてたって知ったら、そりゃ怒り狂うよね……」


 翼はまだ親になったことはないが、見知らぬ沙知の話を聞いただけでも、はらわたが煮えくり返る気持ちだった。それが、自分の娘となれば、親の心中はどれほど怒りに満ちたものであるのか。


 真琴の話では、沙知は当初「もめ事は起こしたくないから」と言って渋っていたらしい。しかし、結局、両親の勢いに押されて、訴えることにしたという。


「何もしないよりはいいのかもしれないけど、精神的にしんどいってさ。宮井さんとしては、早く終わらせたいみたい」


 真琴は携帯を見ながら言う。


 早く終わらせたい。その気持ちはわからなくはないが、意外な言葉だ。なぜなら。


「訴えてる方もしんどくなるんだね……」


 翼はいわば「訴えられている会社で働く」社員だ。自社が訴えられていると思うと、胸がキリキリと痛む思いだった。しかし、訴える方もやはりしんどいのだ。


 翼の言葉に真琴も神妙な顔で頷いた。


「裁判って、当事者同士の『話し合い』で解決しない問題が持ち込まれるわけだからね……。あ、宮井さんが今回選んだのは、裁判じゃなくて『労働審判』だけど」


 労働審判とは、地方裁判所で行われる、労働問題の解決手段の一つだ。地方裁判所に申立人(裁判で言う原告)が、労働審判の申し立てを行うことから始まる。


 裁判よりも解決までのスピードが速く、労働審判官(職業裁判官)が同席の上、申立人と相手方(裁判で言う被告)が話し合い、紛争の解決が行われる。


 裁判は結審するまでに一年以上かかるとされているが、労働審判の場合は最短一回で解決することもある。つまり、数か月で労働紛争が解決する可能性があるということも、裁判との大きな違いだ。


 ただし、労働審判は最短三回までしか利用できない。三回目で解決しない場合は、裁判をすることになる。


「へー、そんなのあるんだ。知らなかったなぁ」


 翼が驚きの声を上げる。真琴も今回初めて知ったようだ。


「とにかく早期に解決することを祈るよ。あの部長が次の事件を起こさないうちに」


 真琴が普段よりも低い声で言う。その声から強い怒りを感じ、翼は肝が冷えるのを感じた。真琴は基本的に穏やかな性格だが、一度敵視した相手には容赦しないところがある。


「今は訴えられてるんだし、何もしないんじゃない?」


 翼がおそるおそる言うと、真琴は「だといいけどね」と言ってドリンクを飲み干した。


(なんか、真琴くんが怖い……)


 そこで、翼は話題を変えることにした。


「ねえ、なんで宮井さんの事件のこと話してくれたの? さっきはまだ話せる段階じゃないって言ってたのに」


 翼の声に、真琴は一瞬沈黙した。そして、少し視線を泳がせながら言う。


「いや、誤解されてそうな気がしてさ……。恋愛感情がないのにホテルにいたって言ったら」


「うん……してた」


 気まずい思いで口にすると、真琴は「やっぱり」という顔をする。


 おそらく、事情を話してくれていなければ、翼は今も混乱して落ち込んでいただろう。


「話してくれてありがとう。安心した」


 笑顔で言うと、真琴もやわらかな笑みを浮かべる。そして、ソフトドリンクが入っているグラスを静かに置くと、翼の顔をじっと見つめた。


「どうかした?」


 首を傾げると、真琴は一つ息を吐く。


 薄暗い部屋の中で、翼を見つめる真琴の顔に光が当たって影を落とす。翼にわかるのは、こちらを強い視線で見つめているということだけだ。一体何を考えているのかがわからない。翼の緊張感が高まっていく。


 沈黙の後、真琴は思い切ったように言った。


「……港さんと付き合うの?」


 思いがけない言葉に、心臓がわしづかみされたような気持ちになった。

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