第22話 理不尽な現実と立ち向かう覚悟

 真琴がホテルに着くと、沙知と総務部部長の佐藤が入り口の前で言い争っている様子が見えた。


「宮井さんっ!!」


 真琴が大声で叫ぶと、沙知と佐藤が振り返る。佐藤は、ぎくりとした顔をしていた。


「何してるんですか」


 ぞくりとするほど冷たい真琴の声に、佐藤は一瞬体をこわばらせた。真琴たちとは、親子ほども年が離れた人だ。おそらく、年齢は五十代後半だろう。


 自分の子供のような年齢の社員に、恐怖を抱いたことを恥じたのだろうか。佐藤はすぐに気を取り直し、高圧的な口調で言った。


「いいか、誰にも言うな。をされたくなければな」


「どういう意味ですか」


 不穏な言葉に真琴は眉をひそめる。佐藤は、太い指を握りしめながら言った。


「来年、合併するから、これから希望退職者を募るんだ。でも、退職者が少なければ、解雇も検討している。君は、お父さんのことがあるから会社を辞めたくはないだろう?」


 総務部の人間は、社員の家庭の事情を把握している。真琴の父親が事故で退職したことも、代わりに真琴が入ってきたことも知っているのだ。


 佐藤は不気味なほどに静かな口調で言った。


「黙っていればいい。そうすれば、人員整理のリストに君の名前は載せない」


 真琴は、ぎりりと唇をかみしめた。真琴は営業部に異動してきてまだ半年しか経っていない。部署内で一番結果を出せていないのは自分だ。つまり、人員整理のリストに名前が載る可能性が高い。


 視線で人が攻撃できればいいのに。真琴は強く思いながら、佐藤を睨みつけた。


 その時だった。


「あの……何やってるんですか?」


 振り向くと、二人の男性が立っていた。東製作所の、資材部の中年社員と、若手社員だ。ホテルは会社の近くなので、偶然通りかかったのだろうか。


 助かった。


 そう思った瞬間、佐藤は真琴を指さして、とんでもないことを口走った。


「し、紫藤くんが、宮井さんをホテルに連れ込もうとしたから助けたんだ!」


 真琴は慌てて「違います!」と言った。しかし、佐藤から「人員整理」のことを言われていたため、本当のことを言うこともできない。


 

 その後、あっという間に「噂」が社内に広まった。



「紫藤くんが、宮井さんをホテルに連れ込もうとしてたんだって」


「佐藤部長が助けたらしいよ」


 一方で、違う噂も流れていた。


「ホテルに行ったのって佐藤部長と宮井さんじゃないの? 前に二人が居酒屋から出てくるの見た人がいるって」


「えー、どっちなんだろう? 佐藤部長そんなことするかな?」


「紫藤くん、宮井さんにフラれて思い詰めたのかもねぇ。まじめだし」


 結局社員たちの間では「真琴が思い詰めて、沙知をホテルに連れ込もうとした」という認識になったようだ。


 後日、噂を知った営業部の甲斐田部長に事情を訊かれて、真琴は全てを話した。すると、「辛いだろうけど黙っていなさい」と言われてしまった。


「どうしてですか?」


 真琴が苛立ちを抑えながら言うと、甲斐田は申し訳なさそうに言った。


「うちの会社で、佐藤部長に物申せる人は社長ぐらいしかいないんだよ。紫藤くんも、仕事を失いたくはないだろう?」


 佐藤はそれほどにまで社内で権力を握っているのか。真琴は茫然とした。社会の闇を見た気分だった。


 

 そして、沙知が退職届を出したと知ったのは、数日後のことだ。



 就業後、誰も来ない駐車場の裏で、真琴は沙知と話し込んでいた。


「なんで宮井さんが辞めるんですか? 辞めるべきはむこうなのに! 僕、会社をクビになってもいいですよ! 社長に訴えましょう」


 幸い妹が就職したので、真琴が退職しても大丈夫だ。実家の生活は何とかなる。仕事を失うのは怖いが、転職すればいい。


 しかし、沙知は黙って首を横に振った。表情が暗く見えるのは、夕方の薄暗い空の下にいるからではないだろう。


「ありがとう。でもね、佐藤部長は社長と仲がいいの。だから社長に訴えても無駄だと思う。会社の体質は簡単には変わらないわ」


 疲れ切った声だった。もう、限界だという悲鳴のように聞こえた。


 何も言えずに立ち尽くす真琴に、沙知は力ない顔で微笑みかける。必要最低限の化粧しかしていない沙知の顔色は、あまり優れていないように見えた。


 以前の沙知は、今どきの女性らしく、力を入れて化粧をしていた。しかし、この頃は簡素な化粧になっていることに真琴は気づいていた。


 化粧をする気力も、がれていったのだ。


「迷惑かけてごめんね。紫藤くんは、お父さんのことがあるでしょ? だから、この会社で頑張って。私は他の所で頑張るから」


 そして、沙知は二言三言、真琴に話すと去って行った。



 有給休暇を消化した後、沙知は正式に退職した。


 旧・中山工業と、旧・東製作所が合併する二か月前のことだった。



 沙知が退職した後、真琴は佐藤と廊下ですれ違った。睨みつけたい衝動を必死で抑えて通り過ぎようとすると、佐藤は暗く激しい口調で言う。


「宮井さんが退職したのはお前のせいだ。あの時、お前が邪魔しなければこんなことにはならなかったのに……」


 真琴は怒りで頭が焼き切れそうだった。「『こんなことにならなかったのに』は、こっちのセリフだ」と言いたいのを必死でこらえる。


 真琴の燃えるような葛藤など知らず、佐藤は憎々しげな口調で尚も言う。


「今度お前に彼女ができたら邪魔してやる。覚えとけ」


 捨て台詞を吐いて去って行った。


 真琴は、その後ろ姿を渾身の力で睨みつけた。



* * *



「何それ! ありえない!!」


 翼は、ソフトドリンクが入ったグラスを思わずテーブルに叩きつけた。


 そして、ふいにまどかの言葉を思い出す。


 ――真琴くん、なんで動かないんだろうね?


 今の話を聞いて、理由がわかった気がした。


(動けない、のかもしれない)


 もし、翼が同じ立場だったら、社内恋愛をすることにためらいを持つだろう。


 真琴が再三にわたって「男は恋愛感情がなくても行動できる」と言っていたのは、沙知の事件があったからなのだ。


 翼は、港がカフェに誘ってきた時のことを思い出す。真琴は過剰なまでに「行くな」と言っていた。おそらく港は「好意」で誘っていたのだろうが、真琴としては「妙なこと」をしないかと心配していたのかもしれない。


 佐藤は真琴に「彼女ができたら邪魔してやる」と言ったという。仕事中に女性をホテルに連れこもうとするような男だ。一体、どんな「邪魔」をされるかわからない。


「宮井さん、怖かっただろうね……」


 翼は口に出して、思わず身震いした。もし、自分が同じ立場だったら。そして、誰も助けが来なかったらと思うと、ぞっとする。


 真琴は深く頷きながら、真剣な顔で言った。


「うん。宮井さんみたいな事件もあるから、翼ちゃんも護身術習っとけば安心なんじゃないかと思って」


 先ほどの「護身術を習いに行かないか」という提案はそういうことだったのだ。しかし……。


「私より、寺川さんの方が危ないんじゃない?」


 翼は歯切れ悪く言った。なるべく出したくない名前だったが、そういうことは言っていられない。


 総務部の部長が、次にセクハラする可能性が高いのは、違う部署の翼ではなく、同じ部署の亜美だと思うからだ。


 しかし、真琴はかすかに笑って言った。


「寺川さんは大丈夫だよ。高校の授業で柔道習ってたらしいから。佐藤部長も全然近づいてこないらしいし」


「え、そうなの? それならよかったけど……」


 しかし、翼の心の中には、モヤモヤとした感情が広がったままだ。


「ねぇ、真琴くん、これからどうするの? 宮井さんが訴えてきた内容って『佐藤部長にセクハラされた』ってことなんでしょ?」


 翼の言葉に、真琴はため息をつきながら言った。


「甲斐田部長からは、今回も黙っとけって言われてる」


 静かな怒りを抑えたような言葉だった。そして、真琴は心を落ち着かせるように、ソフトドリンクに口をつける。


「でも、宮井さんが退職してまで訴えてきたんだ。僕は協力する」


「うん! それがいいよ、そうしよう!!」


 翼は深く頷いて言う。何も悪くない沙知が退職して、諸悪の根源の佐藤がお咎めなしだなんてあんまりだ。


 真琴は勢いよく頷く翼を見ながら、柔らかな表情を浮かべた。そして、ソフトドリンクのグラスをテーブルに置いて、静かな口調で告げる。


「でも、会社とは対立することになるからね。僕はクビになるかもしれない」


 グラスの中の氷が、カランと音を立てた。

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