第19話 彼らの恋愛感情

 中山東工業株式会社に、裁判所経由で宮井沙知からの訴状が届いてから、数日。


 就業前の朝、女性用ロッカーでは、毎日のように様々な噂が飛び交っている。


「宮井さんって、紫藤くんと付き合ってたんだよね」


「でも、紫藤くんと付き合う前にも、社内の誰かと付き合ってたって聞いたことあるけど」


「え、そうなの?」


 翼が制服に着替えていると、噂話が嫌でも耳に入ってくる。


 真琴に真相を確かめたいものの、なかなか話すタイミングがなく、いまだに確かめられない。


 先輩社員の中で一番信頼できる川合美奈は、旧・中山工業の社員だ。真琴と沙知は旧・東製作所の社員の為、詳しい事情は知らないらしい。そうなると、翼は噂を頼りに情報収集するしかなくなってしまう。


 噂話をしているのは、旧・東製作所の社員が中心のようだ。


「宮井さんと紫藤くんが別れた後、ホテルにいるところ見たって誰かが言ってたよ。しかも仕事中に。それがセクハラだって言って訴えてきてるんじゃないかって話だけど」


「えー? 紫藤くん、そんなことするタイプには見えないけどなぁ。あの子、すごく真面目だもん。誰かと見間違えてるんじゃない?」


 翼も全く同感だった。女性社員たちの真琴への心象は悪くないようで、安堵する。


(そもそも真琴くんが、仕事中にホテルに行ったってどういうことなんだろう……?)


 考えてみれば不自然な話だ。学生時代、真琴は授業をさぼるようなタイプの人間ではなかった。そして、大学を中退してまで父親の代わりに就職するような、責任感が強い性格なのだ。仕事中にホテルに行くとは思えない。


 ただ、真琴が再三にわたって「恋愛感情がなくても男は行動できる」と言っていたのも事実だ。


 沙知と「別れた後」にホテルに行った。その時は、恋愛感情がなかったということだろうか。


(情報収集はしたいけど……。疲れるな……)


 噂話を聞くだけで、翼は精神的に消耗していた。


 三年前、真琴は翼に好きだと言ってくれた。しかし、噂話を聞けば聞くほど、それはもう過去のことなのだと突きつけられる。


 もう、翼が知っている真琴ではないのだと、言われている気がした。



 * * *



 表面上は、いつも通り仕事をしているつもりだ。


 しかし。


「槙本さん、どうしたの? 最近ミスが多いわよ」


 美奈に伝票の確認をお願いすると、単純ミスが散見される。今まではこのようなミスはなかったので、翼は深くうなだれた。


 美奈は心配そうな表情で言う。


「遅くまで仕事してるから疲れてるんじゃない? 今日は早く帰ったら?」


「はい……」


 ゴールデンウィーク中、真琴に残業はなるべくやめるように言われた。しかし、結局仕事が間に合わず、夜遅くまで残ることが続いているのだ。


 そして、夕方。


 定時を過ぎ、美奈も帰ってから一時間が過ぎた。


 翼が一人、事務所で仕事をしていると、扉が開く音がする。誰かが取引先から帰ってきたようだ。


「お疲れ、大丈夫か?」


 声をかけてきたのは港だった。珍しく心配そうな表情をしている。


「え? 何でですか?」


「最近、ミスが多いから。真琴のことか?」


 図星をさされて、翼は思わず黙り込む。それを肯定と受け取ったのか、港は少し疲れた顔に笑みを浮かべながら言った。


「噂に惑わされるな」


 港の視線は、翼が見たことがないぐらい、強くまっすぐなものだった。そして、揺れている翼の心を見透かすように言う。


「三年前に君を好きになった男は、セクハラするような奴なのか? 俺はセクハラするような奴を好きになった覚えはないけどな」


 その言葉は、噂に一喜一憂していた翼にとって、ひどく「痛い」言葉だった。


 港は、噂に惑わされることなく真琴を信じている。しかし、翼は噂に振り回されてばかりだ。違いを突きつけられた気がして、心が大きく揺さぶられる。


(私だって、真琴くんがそんなことするなんて信じたくないけど……。でも、何が本当なのかわからないよ……)


 翼が知っている真琴は、まだいるのか。もう、いないのか。わからない。


 噂話は、真琴と沙知が付き合っていたのだという現実を、生々しく感じさせる。それは、悪意なく翼の心を切り裂いていく。


 真相に繋がる情報は集めたい。でも、好きな人が、自分以外の人と恋愛した話なんて、本当は聞きたくない。


 目の奥が熱くなってくる。


「ちょっと失礼します!」


 そう言って、翼は事務所を飛び出した。


 そして、洗面所の近くまで来た時、取引先から帰ってきたらしい真琴に会った。


「お疲れ」


 声をかけられて、翼はぎこちなく頷いた。今がチャンスかもしれない。周りに誰もいないことを確かめて、小声で切り出す。


「真琴くん、噂って本当なの? その、宮井さんと別れた後、仕事中にホテルにいたって」


 翼が問いかけると、真琴はしばらく無言になった。どう説明すればいいのかと、考えている様子だ。


 そして、静かな声で答えた。


「ホテルにいたことは本当だよ。でも、僕は宮井さんに恋愛感情は無かった」


 やはり、ホテルに行ったことは本当なのだ。翼は心が冷えていくのを感じた。


 しかし、二つの事実が、いまひとつ頭の中でつながらない。


「……恋愛感情がないのにホテルにいたって、どういう意味? なんで仕事中に行ったの?」


 かろうじて声を出すと、真琴は気まずそうに目をそらした。


「ごめん。まだ言える段階じゃないんだ」


 そして、真琴は「倉庫に行くから」と言って去って行く。


 なぜか、三年前に真琴が大学を去った姿と重なって見えた。


(私が知ってる真琴くんは、もういないんだ……)


 取り残された翼は、ぼんやりとそう思った。


 自分は三年前の幻影に恋をしているのだろうか。だけど、それならば、なぜここまでショックを受けているのだろう。


 ホテルに行ったのだと聞いた瞬間、心に深くナイフを突きたてられたような気持ちになったのは何なんだろう。


 翼は頼りない足取りで事務所に戻る。


 扉が開く音に反応したのか、パソコンに向かって仕事をしていた港が顔を上げた。そして、翼の様子を見て眉をひそめる。


「どうした?」


 翼はその質問には答えず、席に戻る。そして、抑揚のない声で話し始めた。


「今、真琴くんから聞きました。ホテルにいたのは本当だって。でも、宮井さんに恋愛感情は無かったって」


 口にしていると、ひどく空虚な気持ちになった。


「どういう意味なんでしょう? 恋愛感情がないのにホテルにいたって」


 心が痛いというよりも、何も感じなくなっているような気がした。目から何かが溢れているが、それが何なのか考えるのも面倒だ。


「真琴くん、ずっと言ってたんです。男は恋愛感情がなくても行動できるんだって。それは恋愛感情がなくても、女の人とホテルに行けるってことなんですかね」


 口から滑り落ちる言葉を色で例えるならば、灰色だと思う。今の翼の声には、感情が何も乗っていない。だけど、次から次へと溢れる自分の気持ちを、口にせずにはいられなかった。


 港は黙って聞いていたが、やがて静かな声で言う。


「真琴は恋愛感情が。覚えてないか、俺たちが初めて会った日のこと」


「……え?」


 首を傾げる翼に、港は小さく笑みを浮かべると席を立つ。両手を伸ばし、長い指先で翼の目から溢れる涙を拭った。


 そして、そのまま翼の両頬をなぞるようにとらえる。


 港の眼鏡の奥にある華やかな顔が、息遣いがわかるような距離まで近づいてきた。その光景を、翼はどこか現実感がない気持ちで見ている。


「俺が真琴にキスを拒否されたこと、覚えてないか」


 翼の脳裏に、初めて港と会った日のことがよみがえった。


 港は、真琴と別れることに納得せず、二人は駅で言い合いになり揉めていた。そして、翼は偶然、港が真琴に顔を寄せている姿を目撃したのだ。しかし……。


 ――いやだっ!


 そう言って、真琴は港から距離を取っていた。


「真琴は俺に恋愛感情がなかった。だから、キスを拒否したんだ。恋愛感情がなくても俺と付き合ってはいたが、それ以上のことはできなかった。そんな奴が、ホテルに行くとは思えない」


「でも……ホテルにいたのは本当だって。宮井さんに恋愛感情は無かったって」


 翼が震える声で口にする。一方、港はひどく静かな声で言った。


「何か理由があるんだろう」


「藍田さんは、どうして落ち着いていられるんですか!?」


 翼が責めるように問いかける。しかし、港は小さく笑って即答した。


「俺はもう、真琴に恋愛感情がないからな」


 恋愛感情という言葉で、どこか現実感がなかった翼の意識が戻ってくる。そして、港の長い指先が、翼の両頬をとらえたままであることに気がついた。


「あ、あのっ! これっ! 恋愛感情がないのに、こんなことしない方がいいと思うんですけど!」


 翼が、両頬を指さしながら言う。


 その瞬間、港の余裕のある表情が、少し崩れたように見えた。


 港は、しばらく視線をさまよわせて考え込む。何か言うのを迷っている、あるいはためらっている。そんな表情に見えた。そして、何かを決心したように、長い息を吐く。


 翼の両頬に触れる手に、少し力が入った気がした。


 港はまっすぐに翼を見つめて言う。


「恋愛感情があるなら、してもいいのか?」


「……え?」


 言われている意味がわからない。


 混乱する翼に、港はますます顔を近づける。


 そして、迷いのない口調で言った。



「俺は君に恋愛感情がある。それなら、触れてもいいのか?」

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