第14話 縮まらない距離

 真琴は翼が口にしているスティック菓子を指さして言った。


「港さん、手で折って食べたわけじゃないんだよね?」


 翼は無言で頷いた。真琴の顔がますます近づいてくる。心臓が飛び出しそうなほどに苦しかった。


「じゃぁ……こういうこと?」


 真琴はぎこちなく言うと、翼が口にしているスティック菓子の先端を、少しだけかじり取った。


 パキッと菓子が折れる音がする。


 二人の顔がさきほどより近くなる。それでも、まだスティック半分ぐらいの距離はあった。


 真琴が、翼を射抜くように見つめている。翼も息を詰めて見つめ返す。先ほど港に近づかれた時よりも距離はある。しかし、今の方がよほど緊張した。


 数秒のような、永遠のような。短くて長い沈黙の後。


「まだ残ってるのか?」


 扉が開く音と、帰社した社員の声によって沈黙は破られた。



 * * *



 結局、翼が仕事を終えたのは就業時間を三時間も過ぎた頃だった。ロッカーから出ると、真琴とかち合う。


「翼ちゃん、お疲れ。駅まで送るよ」


「ええっ、いいよ! 疲れてるでしょ?」


 翼は全力で辞退するが「夜は危ないから」と、押し切られてしまった。


 会社を出ると、真っ暗な夜空と街灯が目に入った。夜の闇の中で、オレンジ色の明かりが歩道を照らしている。


 周辺のビルの明かりは消えているが、まだ電気がついているオフィスもあった。


「皆、ゴールデンウイーク前だけど、頑張ってるんだなぁ」


 翼がビルを見上げながらつぶやくと、隣にいた真琴が微笑む。


「そうだね。……翼ちゃん、仕事はどう?」


「流れはわかってきたけど、まだ慣れないなぁ。港さんにも遅いって言われるし」


 何気なく出した港の名前に、はっとする。真琴の顔を見ると、表情こそ変えていないが、何となく空気が硬いものになった気がした。


「……最初だからそんなもんだよ。でも、港さんに何か言われたら相談して」


「う、うん。ありがとう」


 翼はぎこちなくこたえた。



 十五分後、一条駅に着く。改札付近の人通りはまばらだ。駅事務所を見るが、河野はいないようだった。


「そういえば、河野さんってバーは辞めたの?」


 真琴がふと思い出したように言う。


「あ、うん。女装も辞めたって言ってたよ。一人を満喫してるって」


「そうなんだ」


 真琴は眉根を寄せて頷くと、何か考え込んでいた。しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべて言う。


「じゃぁ、翼ちゃん。お疲れ様、気を付けて帰って」


「うん。送ってくれてありがとう」


 最後は笑顔で手を振ることができた。


 そして、素直に気持ちを表現できた気がした。




 ガタンゴトン……――。


 電車の中で揺られながら、翼は先ほどの港の行動を思い出す。


(なんで、私が食べてるお菓子をかじったんだろう?)


 キスを交わせるような距離まで、港は顔を近づけてきた。あんなことをする理由がわからない。よっぽどお腹が空いていたのだろうか。


 一方、真琴の顔が近づいてきた時は、驚きよりも心のざわめきが大きかった。今も思い出すだけで、心臓がどきどきして落ち着かなくなる。


 顔が熱い。口元が緩んでおかしいことになっていそうだ。人に見られないように、口元を手で隠す。


 真琴とも、あと少しでキスを交わせそうな距離だった。しかし、ふと気づく。


(宮井さんっていう人とキス……したのかな)


 想像すると泣きそうな気持ちになった。


 翼は誰とも付き合ったことがなく、キスさえもしたことがない。だけど、真琴は違うだろう。


(さっきのお菓子の件も、港さんに対抗してくれたのかなって思っちゃいそうだけど。彼女いたんだもん。私のこと好きなわけないよ)


 きっと港がどういう行動を取ったのか、具体的に確かめたかっただけだろう。


 苦い溜息と共に、淡い期待が吐き出されていった。



 * * *



 自室の床に荷物を広げ、ボストンバックに詰め込んでいく。


 寮に帰ってきた真琴は、数日分の宿泊用の荷物を整理していた。明日から実家に帰省するからだ。


(河野さん、今彼女いないのか……)


 先ほど聞いた河野の近況を思い出す。


 翼は三年前、河野に恋をしていた。結果として振られてしまったが、時間が経った今ならば……――。


 真琴は、新入社員歓迎会で翼が言った“口説き文句”を思い出す。



「私は、あなたに舞い落ちる桜の花びらになりたい。そうしたら、ずっと一緒にいられるから」



 翼の声はたどたどしかったが、心に響くものがあった。演劇経験者の真琴には、すぐにわかった。「誰かのことを思い出しながら言っている」と。


 相手は誰なのだろう。河野だろうか。それとも、大学時代の男友達だろうか。


 そして、他にも気になることがある。


(港さん、翼ちゃんが食べてるお菓子かじったって……ありえないだろ)


 完全に同僚の範疇を越えている。真琴が帰社していなければ、翼にキスしていたのではないだろうか。


 そこまで考えて、ふと思い出す言葉があった。



「願わくば、この恋心が結晶となってほしいものです」



 新入社員歓迎会で、港が翼に言った”口説き文句”だ。


 情感を込めたあの言葉は、ただのセリフだと思っていた。しかし、あのセリフは演技ではなく、本気だったのではないか。


 もしくは、両性愛者であることを隠すために、カムフラージュで付き合える女性を探している可能性もある。


 前者の可能性については、ずっと考えつつもありえない気がしていた。そして、後者の可能性も低いだろう。昔「好きでもない女の子と付き合うのがしんどかった」と、港は言っていたからだ。


 ただ、前者と後者ならば、後者の方がまだありえそうな気がした。


 しかし、そうなると、翼が危険だ。連休が明けたら、残業は早く切り上げるように警告したほうがいいかもしれない。


(なるべく港さんと二人っきりにならないように言っとかないと……。何かあってからじゃ遅いんだ)



 恋愛感情がなくても、行動に移せる人間は存在するのだから。

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