第6話 恋敵と嫉妬

「紫藤さん、回覧です」


 翼は緊張しながらそう言って、真琴に回覧を手渡した。「紫藤さん」と呼ぶのは初めてで、なんだか慣れない。


 それは真琴も同じだったのか、まばたきをしながら翼を見つめている。そして、我に返ったように「うん、ありがとう」と言って回覧を受け取った。


「つ……槙本さん、出席できるんだね」


 いつもの癖で、名前で呼ぼうとしたようだ。真琴から「槙本さん」と呼ばれるのも随分久しぶりで、変な感じがした。


「はい、大丈夫です」


 真琴に対して敬語で話すのも慣れない。胸がむずむずする。そして、真琴が何か言いたげに翼を見た時。


「紫藤さーん!」


 後ろから、砂糖菓子のように甘い声が聞こえてきた。振り向くと、亜美が事務所の入り口から入ってきたところだった。


「今、大丈夫ですか?」


 亜美にそう問われて、真琴は翼を見る。翼はとっさに「じゃぁ、私はこれで」と言ってしまった。用事自体はもう終わっているのだ。その場にいるのがいたたまれなくて早足で席に戻る。


 後ろで亜美が「先週の交通費、早く出してくださいよぉ。もうすぐ締め日なんですぅ」と言っているのが聞こえた。亜美が去ったのは数分後。真琴に「ごめん、仕事あるから」と言われてからのことだった。


 翼は、二人の様子をちらちらと見ては、心臓が縮み上がる思いだった。真琴と亜美、可愛らしい二人が並ぶとお似合いに見える。自分は亜美のように可愛らしくもないし、積極的に好きだという気持ちを表現できない。自分にないものを持っている亜美が妬ましくて、羨ましかった。


(嫉妬じゃん……)


 胸の内側を炎が焼きつくすような、荒れ狂うような苦しさ。「嫉妬」という感情を自覚し、戸惑った。初恋の相手、河野の時は、恋敵がいなかったので嫉妬をしたことがなかったのだ。


(だめだめ! 切り替えて、仕事しよう)


 就業時間を過ぎたが、仕事は残っている。港に迷惑をかけないように、伝票の入力作業を進めておかなくては。そう決心して、パソコンに向き直った瞬間。


「槙本さん、入力終わった?」


 港だった。


 港の席は、翼の席とは通路を挟んで向かい側にある。お互いに背を向ける形で仕事をしているのだ。


「いえ……まだです」


 気まずい思いで告げる。また「遅い」と言われるのだろうか。翼がぎゅっと唇を引き結ぶと、港が眼鏡のずれを直しながら言う。


「仕事終わったら、タイピングの練習しといたほうがいいぞ。それか朝、早めに来て練習するか」


「あ……はい」


 今朝言われたことなのに、忙しくてすっかり記憶から抜け落ちていた。港は、翼をちらりと見て言う。


「忘れてただろ」


「いえ、そんなことないです!」


 翼は慌てて言った。小さな指示でも、メモを取るべきだな。心に強く刻み、机の傍らにあるメモに「入力練習」と書き込む。


 港は、学生時代に塾講師として、生徒たちに「教える」ことをしてきたからだろうか。後輩である翼に対して、面倒見もよく、親切だと思った。


 三年前は「恋敵」として敵意を向けられていただけに、正直、いい印象がなかった。しかし、今は落ち着いて、港のことを見ることができている気がする。港も同じなのかもしれない。


「槙本さんの伝票入力が遅かったら、お客さんに持っていけないからな。頑張って練習してくれ」


 華やかな顔に笑みを浮かべて港が言う。途端に、翼の心に芽生えていた「親切かも」という印象がかき消されていった。


(そういうことか!!)


 自分が困るから翼に警告していただけだったのだ。もちろん、具体的に教えてくれるだけ、親切ではあるのだろう。


(っていうか港さん、まだ真琴くんのこと好きなのかな……?)


 たとえ三年前に真琴を諦めたとしても、想いが再燃している可能性もある。そして、もしそうだとしたら。


(私のこと、追い詰めようとしてる……?)


 翼は港から見たら、かつての恋敵なのだ。港はやはり今でも翼を「敵視」しているのではないか。そう思うと急に不安になってしまう。


(だめだめ! 今は仕事中だもん!)


 首をふるふると振って気持ちを切り替え、キーボードをたたき始めた。



 真琴とはその後、数日間、何も話せないままだった。せめて、トゲがある言い方をしてしまったことだけは謝りたい。しかし、なかなか話しかける機会がなかった。昼休みは、真琴は取引先に行っているし、就業時間後は、翼よりも遅くまで残っている。同じ会社にいるのに、話しかけるスキがないのだ。


(新入社員歓迎会の時には、少し話せるかな……)



 そして、週末。


 新入社員歓迎会の日がやってきた。

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