第5話 爆発したコンプレックス

「翼ちゃん……河野さん?」


 真琴は、驚いたように言った。河野も、目を瞬かせている。


「河野さん、今、一条駅で勤務してるんだって」


 翼が言うと真琴は「知らなかった」と言う。河野が転勤してきたのはつい最近らしい。


「紫藤くんもこの辺に就職したの?」


 河野の言葉に真琴は頷く。すると河野は爽やかな顔に笑みを浮かべながら「二人とも頑張ってね」と言って、帰っていった。元同級生である二人に気を使ったのだろう。


 取り残された翼と真琴に、気まずい沈黙が訪れる。電車の乗客の波も引いたので、人の通りもまばらだ。


「翼ちゃん……河野さんのこと、まだ好きなの?」


 静かに問われた言葉に、胸の中がざわめき、波紋が広がっていくような気がした。なぜか、泣き出しそうな気持ちになる。


 河野は初恋の人だ。心が揺れ動かなかったと言えば嘘になる。だけど、三年前、恋していた時のような、ときめきや甘い痺れが胸に広がっていくことはない。


 そして、今、心を震わせるのは……。


「真琴くんこそ。寺川さんって可愛い人だね」


 思った以上にトゲがある響きになってしまって、翼自身が驚いた。


 寺川亜美は砂糖菓子のように甘い顔をした、可愛らしい女の子だ。ボーイッシュな外見ゆえに、美少年に間違えられてきた、翼のコンプレックスを刺激する女の子。


 真琴に目を向けると、戸惑った顔をしている。翼のトゲがある言葉に驚いているのだろうか。


 二人の間に、再び気まずい空気が流れた。


「ごめん、電車の時間があるから。帰る」


 翼はそう言って、早足で改札に向かった。



 駅のホームで電車を待ちながら、翼は罪悪感にとらわれていた。


(可愛くない言い方しちゃった)


 ボーイッシュな外見ゆえに、自分は可愛い女の子になれない。昔からそう思っていた。だから、女らしい外見をした子が羨ましかった。


 それゆえに、真琴に可愛い女の子、亜美が近づいているのを見て、コンプレックスを刺激された。そして、先ほどの真琴との会話で「爆発」してしまった。


 真琴も、昔は美少女に間違えられていたほど、可愛らしい顔立ちをしている。二人が並ぶと、とてもお似合いに見えて悔しかったのだ。


(せっかく再会できたのに、すごく嫌な子になっちゃったよ……)


 思い出すだけで、苦いため息が出る。もう社会人なのに、昔のコンプレックスで動揺して、そして、感情的になってどうするのだろう。


 三年前、口に出す前に終わってしまった真琴への恋心。鎮火したはずの、小さな恋の炎は揺れ動き、心の中で大きくなっていく。


 真琴への恋心と、亜美への羨望と嫉妬、そしてコンプレックスが刺激されて、翼の中で混ざりあう。自分の内側で荒れ狂う気持ちを、どうコントロールすればいいかわからない。


 翼は何かが溢れてくるのを感じ、思わず天井を仰ぎ見た。


* * *


 翌朝、気まずい思いで翼は出社した。昨日は、入社日だったのでスーツだが、今日は私服で出勤だ。


 ロッカーに荷物を置いて、スプリングコートを脱ぐ。菜の花のようなイエローのニットに、桜模様の刺繍が入ったスカートが現れる。翼は春らしい服装から、紺色の真新しい制服に着替えて事務所に向かった。


 指定された時間より早めに来たので、事務所にはまだほとんど誰もいない。いるのは、一人だけだ。


「おはようございます」


 翼が声をかけると、唯一事務所にいた港が顔を上げる。


「おはよう」


 きちんと目を見て挨拶をしてくれて、翼はほっとする。そして、席に着いて、仕事を始めようとすると、港から声がかかった。


「昨日はよく眠れたか?」


「あ、はい」


 色々あって疲れてしまい、倒れこむように眠ってしまった。


「それならいいけど。疲れた顔してるから」


 港の言葉に、翼はぎくりと体をこわばらせる。さすが、大学時代に演劇サークルに入っていただけのことはある。観察眼が鋭い。


 そして、翼は気づいた。


(港さん、私に敵意は持ってない……?)


 三年前、真琴に想いを寄せていた港は、真琴の想い人である翼に敵意を向けていた。しかし、今はどう考えても翼を気遣う言葉をかけている。これは意外なことだった。やはり、三年経つと色々変わるのだろうか。


 そんなことを考えていると、港は翼に言う。


「ちょっとタイピングやってみろ」


「え? タイピングですか?」


 戸惑う翼に対し、港は席に座るように指示をする。そして、注文書を取り出して入力するように言った。


 言われるままに入力すると、すぐにストップがかかる。


「やっぱりな」


 港はため息をついて言った。どういうことだろうか。翼の心の声を察知したかのように港は言う。


「入力が遅いのは、キーボードの位置を指が覚えてないからだ。そのペースだと、後々しんどくなる。仕事の時間外に練習した方がいい」


 翼はその言葉に驚いた。昨日言っていた「今は夕方だからいいけど、朝もこのペースだとしんどくなるぞ」というのは、こういう意味だったのか。冷たく思えていた言葉に隠された意味を知って、心がじんわりと温かくなる。


(港さんって、結構いい人かも……)


 三年前、敵意を向けられていたので「苦手」だと思いこんでいた。しかし、話してみると意外な一面が見えるものだ。


 翼の視線に気づいたのか、港が首を傾げる。


「なんだ?」


「いいえ、なんでもないです。ありがとうございます」


 そう言って笑うと、港は虚を突かれたような顔をした。どうしたのだろう。今度は翼が首を傾げながら、席に戻った。


* * *


 就業時間後、回覧シートが翼の手元に来た。


(新入社員歓迎会か)


 日程を確認し、翼は出席に丸を付ける。回覧は翼が最後だ。シートには「戻り/紫藤」と書かれている。真琴に回覧を戻すということだ。


(気まずいなぁ……)


 昨日、なかば喧嘩別れするように立ち去ってしまった。今朝も挨拶だけはしたものの、業務上の関わりがないので、ほとんど会話はしていない。それでも行くしかないのだ。


 翼は、意を決して真琴の席に向かった。

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