第2話 恋は再度始まるのか

(とにかく間違えないようにしないと……!)


 翼は、慎重に注文書を見ながら伝票を入力する。


 入力後は何度も見直し、指導係である美奈にも確認してもらった。そして、美奈の了承を経て、みなとの席へ持って行く。


「藍田さん、伝票です」


 考えてみれば、きちんと苗字で呼ぶのは初めてだった。港は「ありがとう」と言って受け取ると、入念に確認する。ありがとう、と言ってくれたのは意外だった。


 その後も、伝票を入力したり、電話応対の練習をしたりと、一日は慌ただしく過ぎていった。そして、夕方の落ち着いた時間に、翌日分の伝票を入力する。


 港に渡しに行くと、伝票から顔も上げずにこう言われた。


「今は夕方だからいいけど、朝もこのペースだとしんどくなるぞ」


 その声はひどく冷たく聞こえて、翼の心に突き刺さった。


(スピードが遅いってこと?)


 正直、翼はパソコンのタイピングが苦手で、あまり速い方ではない。遅さを指摘されたような気がして、落ち込んでしまった。


(私が悪いんだけど……。やっぱり敵視されてるのかな……)


 これからのことを思うと、不安になってしまった。

 

 定時を過ぎると、美奈から「もう上がっていいわ」と言われた。翼は「お先に失礼します」と頭を下げて、事務所を出る。更衣室に立ち寄って、制服からスーツに着替えた。


 会社から出ると、優しい春風が身を包む。オレンジ色の夕焼けがまぶしかった。


(はー、まさか真琴くんと、港さんと同じ会社になるとはなぁ……)


 翼は駅に向かって歩きながら思った。


 真琴が退学した直後は連絡を取り合っていた。しかし、お互いに忙しくなり、連絡も途切れていたのである。


 それが不思議な縁に導かれて、今回、数年ぶりに再会した。


(真琴くん、たくましくなってたな……)


 翼は真琴の顔を思い出す。大学生だった時、もっと言えば初めて知り合ったセンター試験の日は、美少女と間違えるぐらいの可愛らしい男の子だった。


 しかし、今は可愛らしさはあるものの、頼りがいがある、落ち着いた青年という印象を受けた。きっと、この三年間、社会で必死に闘ってきたゆえの変化だろう。


 ふと、公園に桜が咲いているのが目に入る。風に吹かれて、桜の花びらが舞い落ちていく。


(きれいだなあ。そういえば、真琴くんと桜見に行ったっけ)


 大学時代、桜のライトアップに一緒に行った時のことを思い出していると……。


「翼ちゃん!」


 呼びかけられて振り向くと、スーツを着た真琴が走ってくるのが見えた。そして、翼の近くまでやってくると笑いながら言う。


「今から、ちょっと飲まない?」


 * * *


 二人はコンビニに行って、酎ハイを買った。翼が財布を出すと「今日は入社日だから僕のおごり」と言われる。


(前もこんなことがあったな……)


 真琴と初めて会った、センター試験後のことだ。二人でコンビニに行って、肉まんを食べたのである。その時も真琴は「男が払うものだから」と言ってくれた。


 そして、二人は公園に戻ってベンチに座る。桜の木々がよく見える特等席だった。


「翼ちゃん、入社おめでとう」


「ありがとう」


 桜を前にしながら、二人は缶をこつんと合わせて乾杯する。


 真琴は酎ハイに口をつけながら笑った。


「まさか、新入社員が翼ちゃんだとは思わなかったよ」


「私も! まさか真琴くんと港さんがいるとは思わなかった! ……あ、ごめん。これからは紫藤さんって呼ばなきゃだめだよね」


 翼がうつむいて言うと「仕事じゃない時とか、昼休みだったら、今まで通りでいいよ」と真琴は言う。


 仕事の先輩と後輩という立場になったが、そう言ってもらえて、翼は嬉しかった。お酒を飲んだせいか、顔が熱くなってくる。


(真琴くん、今、彼女とかいるのかな……)


 翼はふとそんなことを思う。


 三年前、言いたくても言えなかった気持ちは、いつまでも溶けることのない雪のように降り積もっていった。それでも心の痛みは、時間と、日々の忙しさが忘れさせてくれた。初めからなかったかのように。


(でも、忘れてただけで、ずっと”気持ち”は残ってたんだ……)


 なぜなら今、真琴を目の前にすると、どこか心が揺れ動いている自分がいる。まるで、風に舞う桜の花びらのように。


 翼は、三年前より大人びた真琴の横顔を見つめた。そして、口を開きかけた時。



「紫藤さーん!」



 遠くから、砂糖菓子のように、甘ったるい女の声がした。そして、世界中の可愛らしさを全て集めたかのような若い女子が、走ってくるのが見える。



 翼は思い知った。三年という月日は、長いものだと。変わらない気持ちもあれば、変わってしまう気持ちもある。


(三年前、真琴くんは私のことを好きだって言ってくれたけど……)



 今、可愛い彼女ができていたって、ちっともおかしくないのだ。

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