第6.6話 魔狼フェンリル、森へと駆け抜けること

(こいつは炎だ)


 火の国の魔人スルトというのがこの女性の名前だ――女性? 果たしてそうなのだろうか。外見も声も、確かに若い女性のそれではあるが、フェンリルの知る限り女性の髪は黒く輝いたりしないし、燃え盛る馬に乗ったり、炎の巨人を発生させたりしないし、こんなにも体温が高くないはずなのだ。

 だから、だから――フェンリルはこいつを食い止める。イドゥンやヘルたちの元へと行かせないために。そして、可能なら――殺す。殺してやる。なぜなら〈火の国の魔人〉は、お伽噺によれば、亡者を殺す存在だからだ。フェンリルとそのきょうだいを脅かす存在だからだ。


(こいつは炎なんだ)


 気にかかっていたのはイドゥンのこともだった。〈黄金グルヴェイグ〉と巨人ヒュミルは彼女のことを呼んだ。

 彼女が古き災害、九の災厄のうちの一柱である〈黄金のグルヴェイグ〉だなんていうのは馬鹿らしい話だ。彼女は小柄で、よく笑い、フェンリルの毛皮を触ることが好きな、ただの、ただのヴァン神族の女の子だ――確かに黄金の首飾りは身につけてはいるけれども。

 だがもし彼女が九世界を脅かす災厄たちと関連があるなら――〈火の国の魔人〉にその命を狙われてもおかしくはない。なぜならば、〈火の国の魔人〉とは亡者のみならず、災厄をも滅するために存在するのだから


(こいつが炎なら、水で消えるはずなんだ)


 フェンリルは己の臓腑と同化した《銀糸グレイプニル》を最大まで延長して城塞都市スリュムヘイムを覆った。そしてスルトの行き先を妨害し、惑わせ、己の元へと接近してくるように仕向けた。人工池に繭を作り、糸で水を吸い上げて溜め込んだ。

 思った通りに近づいてきた〈火の国の魔人〉に対し、柄杓状にした糸塊で人工池の水をぶち撒け――そしてフェンリルは噛み付いた。


(熱い)


 フェンリルは〈火の国の魔人〉の身体に噛み付いたままでそのまま疾走した。炭化して砕けた後ろ足は、《銀糸》で無理矢理繋いでいて、もちろん安定なんてせず、踏み込む度に涙が出るほどの痛みがあったが、フェンリルは走り続けた。攻撃されたことに気付いたのか、スルトは身体の温度を炎のように上げたが、口の中と周りを焦がされながらも、フェンリルはその身体を離さなかった。

 スルトは珍しい金属の鎧を身に着けてはいたが、その程度はフェンリルの斧のような歯の前では意味をなさなかった。そして薄板一枚突き破った先には、女の柔らかい肉の感触があった。さらに牙が通り抜けていくと、腹の中に押し込まれていた内臓の感触があった。力を込めずとも歯先がめり込むだけで、それはぶちゅりと簡単に潰れた。

 にも関わらず、スルトには巨大な三日月斧を振り回すだけの余裕があるらしかった。不安定な体勢のままで振り回されたその斧は、フェンリルの傷だらけの耳を切り落とした。苦悶の表情を受けてはいたが、〈火の国の魔人〉の力が水をかけられたことや噛みつかれたことで衰えているようには見えなかった――そうだ、水をかけたくらいで死ぬのであれば、お伽噺の〈火の国の魔人〉は恐れられたりはしないだろう。


(とても熱い)


 さらなる一撃が頭部を襲いかけたが、フェンリルは首を振ってスルトの身体を振り回した。斧はフェンリルの頭に当たらなかったが、近くの木々を草でも刈るかのように簡単に削いだ――スリュムヘイムから離れるためにスルトを咥えて走り続けているうちに、森の中に入ってしまったらしい。スリュムヘイムの近くの森なら、たしかバリだとかいう名前だと街で聞いた覚えがある。

 口の中が燃えるように熱い。いや、燃えている、実際に、くそ、痛い。熱い。スルトの身体がさらに熱を持ったかのようだ。炎を咥えているのと変わらない。


 それでもフェンリルはスルトの身体を離さなかった。とっくに後ろ足に巻いていた《銀糸》は解け、後ろ足はもはやどんなにかしても用をなさなくなり、走ることはできなくなったが、森の中で、何度も何度もスルトの身体を振り回した。木々に、地面に叩きつけた。口内のものがぐちゃぐちゃになるまで、肉塊と化すまでフェンリルはスルトの身体を離すつもりはなかった。どんなに焼かれても。


 フェンリルはヘルとヨルムンガンドのことをよく知らない。きょうだいであるということは母から聞いていたし、ヘルとは幼い頃だけは会ったこともあった。久しぶりに会ったヘルは、幼い頃よりも目つきが険しくなり、刺々しくなっていた。ヨルムンガンドは産まれてすぐに捨てられたと聞いていて、だから名前を聞いたことはあっても、会ったことさえなかった。あまり会話をせず、蛇ゆえに表情もよくわからず、だが嵐の日はその金色の目でじっと空を眺めているヨルムガンドの姿は印象的だった。

 短い旅だ。短い旅をした。〈第一平面アースガルド〉から〈第二平面ミッドガルド〉に初めて訪れた。イドゥン、ブリュンヒルド、シグルドたちとともに食料や水を探したり、水浴びをしたり、方位を確かめたりしながら歩いた。ヒュミルの館で恐ろしさに身を縮ませた。次にはスリュムヘイムを目指した。その前よりも長い旅路だった。スリュムヘイムの人神はどこか活気がなかったのかもしれないが、フェンリルにとっては初めて訪れる街であり、こんなにも多くの人に囲まれたままで歩けるというのは感動的だった。よくイドゥンと出かけて、買い物をしたり、探検をしたりした。


 フェンリルとイドゥンは深い繋がりがあるわけではない。親ではないし、きょうだいでもない。〈力の滅亡ラグナレク〉のあの日、ただ倒れている彼女を見つけて背中の上に載せたというだけの関係だ。

 だが彼女は女の子だった。

 母ときょうだい以外で初めて会話をした女の子だった。

 彼女はフェンリルのことを恐れず、好きでいてくれて――何より、可愛らしかった。


 フェンリルが戦う理由は、それだけだ。


 ぼとりと音がして、どれだけ燃やされても離さない決意をしていたスルトの身体が地に落ちた。彼女の傍らに転がっている血塗れの白い毛に塗れたものが、己の下顎であるということは、わかっていても理解したくはなかった。


   ***

   ***


 全身に痛みが走っている。水をかけられたあと、巨大な顎で噛みつかれ、鎧ごと腹を噛み砕かれ、地や木々に叩きつけられた。なんとか《炎斧レヴァンティン》は離さずに済んだが、振るおうとしても全身を滅茶苦茶に揺すられれば、目標を定めるも何もなかった。


 だがスルトは〈火の国の魔人〉である。九世界のあらゆる生命を浄化する〈火の国の魔人〉にとって、相手が九世界の生命ならば、恐れるものではない。憎き〈災厄〉たちや〈呪われた三人〉に必ずしも通じないのは、あれらが九世界の生命ではないのだから仕方がないが。

 スルトは振り回されながら、さらに温度を上げた。スルトが体温を上げるという行為は九世界の力を使う。災厄や亡者どもを駆逐するために温度を上げた結果、九世界が危機に瀕する可能性もある。

 幸いなことに、スリュムヘイムに銀の壁を作っていたこの〈魔狼〉が繭を解いたため、いまはスリュムヘイムは手薄であり、スルトの作り出した炎の魔人たちがイドゥンだとかいうフレイの妹のもとへと近づいていっている。だからここで足踏みしていても無駄ではないのだが――それでも延々とこの犬に振り回され続けるわけにはいかない。


 熱せられ、炭化し、脆くなって最初に砕けたのは、スルトの身体をがっちりと捉えていた顎だ。〈魔狼〉の下顎が落ちる。焼け焦げたせいか、血はほとんど出てはいないが、後ろ足が砕け、錐は断たれ、顎が落ちたとなれば、もはや抵抗はかなうまい。

 地面に落とされたスルトは《炎斧》に縋るようにして立ち上がった。スルトは人神ではない。だから腹を食い破られた程度では死なない――それでも相応のダメージはあった。こんな、犬程度に。

「この――」

 スルトは悪態を吐いて〈魔狼〉に近づいた。下顎が落ち、耳は切られ、顔の大半が焼け、瞼は閉じたまま――既に顔が原型を留めていないほどに破損したその顔からは色は読み取れなかったが、しかし呼吸に合わせて身体が僅かに上下しているので、まだ生きていることはわかった。


 だが、だがもはや何もできまい。もう、何も。何かできたところで、スルトに通じないのはわかっているはずだ――既に彼女の腹に空いた穴は塞がりつつあった。


《炎斧》を両手で握り、振り上げる――フェンリルは動かない。

《炎斧》を振り下ろす――フェンリルは動かない。

《炎斧》の刀身が食い込む――フェンリルは動かない。

《炎斧》が丸太よりも太い首を半ばまで断ち切る――それでもフェンリルは動かない。


 斧はフェンリルの首を切断した。下顎のない〈魔狼〉の首がごとりと落ちた。血が大量に吹き出し、スルトの身体を汚した――そしてようやく、フェンリルが動いた。首のなくなった身体を取り巻く赤く濡れた銀の糸が蠢き、落ちた首の切断面と繋がるや、その首がスルトの喉元に跳びかかってきた。

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