第5.16話 魔狼フェンリル、天の淵の捜索を確約すること

「叫ぶのをやめなさい、ヒュミル。ぼくがこの街にいるのは、外敵をこの街に近づけぬようにするためです。あなたがこの街に敵対するというのなら、あなたを排除することになります」

 

 土煙が舞い上がっていたのは、ヒュミルの幾つもある腕が地を叩いたからだ。

 そこら中に崩れた石屑があるのは、ヒュミルが外壁の建造なぞもはや構ってはいないからだ。

 鳥が近くの森から羽ばたいたのは、ヒュミルに恐れをなしているからだ――だが相対する男はどうだろうか?


 少なくともフェンリルたちがこの街に来たとき、関所には十人以上の巨人族が待機していた。だがいま、この南側の関に兵の姿はなかった。ヒュミルの騒動を受けて逃げ出したのかもしれない――小柄なアース神族の男を除いては。

 ゆっくりと、まるでたったいま気づいたとでも言うようにヒュミルは〈雪目ウル〉を見下ろした。ヒュミルの首は3つあったが、真ん中の首以外の目に瞳はなく、それが離れたところで様子を見ているフェンリルにも、より一層恐ろしく感じられた。

「エリが戻ってこない」

 とヒュミルが声を落として言った。喋るとき、やはり真ん中以外の唇は動いてはいなかった。あの左右の首は、用を為してはいないのかもしれない。


「エリ……あなたの妻だという女性ですか?」

 しかしウルは恐れを見せずにヒュミルと真っ向から問いかけた。

「そうだ。昼が過ぎ、ここ数日であれば戻ってきた時間を回っている。だが帰ってこない。エリをどこへやった?」

「どこかで道草をしているのでは?」

「それはありえない。遅すぎる。エリをどこへやった?」

「ヒュミル、ここは巨人族の街です」

「知っている」

「あなたの妻だという女性も巨人族でしょう?」

「だが戻ってこないのは異常だ」

「ぼくが言いたいのはそういうことではありません」とウルはゆっくりと首を振った。「巨人族の女性があなたから逃れるために、この街ほど適当な場所はないということです」


 地面が揺れた。


 続けて巻き起こった風と土砂埃から、フェンリルはイドゥンを庇うために立ち塞がった。

 砂埃が晴れると、怒りを形にしたようなその姿勢から、恐るべき風と地揺れを起こしたのがヒュミルの四つあるうちのひとつの握り拳であるということがわかった。

(死んだか………!?)

 いや、血の匂いがしない。ウルは振り下ろされた拳の前に立っていた。拳を避けるために退いたのか、それともヒュミルの拳に当てる気はなかったのか。そもそも振り下ろされるときの拳さえ見えていなかったフェンリルには、どちらなのかわからなかった。

「エリは戻ってくる」

「あなたのエリは戻ってきません」

 今度は見えた。ヒュミルの四つある腕のうちふたつが叩きつけられるために互いに組み合うのが。それと同時に、ウルが後方に飛び退り、弓を構えるのが。


「待って!」

 絞り出すような声はか細く、であれば必死に吐き出したとしても向かい合う男たちには届きそうにはなかった。

 言葉を発する程度には回復したものの、未だ体調が悪そうなイドゥンを前に、フェンリルはどうすれば良いのか惑った。だが小さな白い指が関所の外を指し示したため、小柄な少女を背に載せて亡者とアース神族に近づくことにした。ゆっくりと、慎重に。

「待って………」

 近づいてもう一度発せられた言葉は先ほどの叫びよりも小さかったのに、今度は男たちの耳に届いたらしい。赤い2つの目と、6つのうち4つが欠けた目がフェンリルを射抜いた。


「わたしたちがエリを捜します。だから……だから、ヒュミル、あなたはここで待っていて」

 手をついてどうにかイドゥンが起き上がったことで、4つの目がフェンリルからフェンリルの背中に寝かせられていた少女に移ったことがわかった。射抜かれるような視線が移動したことで、逆にフェンリルは恐怖を覚えた。己の命が危険に晒されるような状況は何度もあったが、自分だけが守れるものが危険に晒されたのは初めてのことだった。

「おまえは……」

 というヒュミルの呟きを遮って「あなたたちは隠れていなさい」とウルが冷徹な声で言った。フェンリルは幼い頃の彼との出会いを思い出し、尻尾を足の間に挟んで逃げ出したくなった。

 だがイドゥンはめげなかった。

「座って、ヒュミル。わたしたちがエリを必ず捜します」

 

 地面が揺れたとき、またヒュミルが怒りに任せて地面を叩いたのだろうと思った。

 だが実際には叩きつけられたのは拳ではなく尻であり、ヒュミルが胡座をかいて腰を下ろしていた。彼はもはや、対峙していたはずのウルを見てはいなかった。眼球のない眼窩を含めると、3つ首の6つの目がすべてフェンリルの上へと、イドゥンへと注がれていた。

「フェンリル、行こう。エリのこと、捜せるよね?」

 だいぶん落ち着いてきた少女の声に、フェンリルは慌てて頷いた。そして、逃げ出そうとするのではなく、確かにエリヴァーガルの行方を追おうとしているのだぞ、というポーズを示すためにも、鼻を一度地面すれすれまでつけて匂いを嗅いでから、イドゥンを載せたままでスリュムヘイムの中へと駆け戻った。

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