第5.6話 魔狼フェンリル、天の吠え手から逃れるために甕の中に逃げ込むこと
「お、狼……」
歪んだ金属扉の小窓を開けた女性がそう呟いたので、フェンリルは少し嬉しくなった。ヘルなどが毎度毎度フェンリルのことを犬と呼ぶので、プライドを傷つけられた気分になる。目の前の女性は正しくフェンリルのことを狼と呼んでくれた。
しかし彼女の瞳にも声にも怯えがあり、あまつさえ涙まで浮かんでいるとなれば、フェンリルは哀しくなった。女性は小柄で色が白く、妙齢の可愛らしい容姿だった。跪いていると床に届くほど髪が長い。そんな女性が自分に対して怯えているのだ。本来の巨大な〈魔狼〉の姿ではなく、小さな狼の姿でも、自分の見た目は女性を怯えさせるのに十分なのだ。
フェンリルはきょろきょろと家屋の中を見下ろした。採光用らしい小さな小窓以外に窓がないため、部屋の中は薄暗く、洞窟の中かのようだ。玄関を抜けてすぐの場所にある部屋は、皿や炊事場があるところから台所のように見える。土が露出している床の上には幾つもの甕や壺が置かれており、天井からは干した野菜や魚が吊られていた。
「こんにちは」
と続いて扉を抜けてきたブリュンヒルデが女を見下ろして言った。ヘルたちも続々と中に入ってきて、最後には〈
「わたしたちは怪しい者ではありません――そうは見えないかもしれないけど。ただ、ここがミッドガルドのどこなのか知りたいだけです。あと食べ物を恵んでほしい。それと、できれば寝床も」
ブリュンヒルドの厚かましい願いに対し、女は口をぱくぱくさせることしかできなかった。おそらくは外でフェンリルたちがうろついていた時点で怪しい者たちの存在に気づき、扉の隙間から動向を伺っていたのだろう。それで突如として得体の知れぬ糸が侵入してきたのだから、恐怖も一入だろう。
(でも、どうして扉を開けてくれたんだろう?)
《銀糸グレイプニル》に侵入され、どうせ立て籠もっていても無駄だと考えたのだろうか。フェンリルがその理由を確かめるため、女性に鼻の先を近づけて匂いを嗅ごうとすると、ヘルが尾を掴んで引き止めた。
「で、出て行ってください……」
そのか細い声はあまりに小さく、もしかすると耳の良いフェンリル以外は聞こえなかったかもしれない。
己でもその自覚があったのか、女性は言い直した。「出て行ってください。大声を出さずに、この場所から離れてください。戻ってこないでください」
「そうつっけんどんにしないでくださいな」とブリュンヒルデが柔和な笑みを浮かべながら、女性の手を掴んで引き起こす。「何か危害を加えようというつもりはないのです」
「そんな心配はしていません。食料が欲しいなら分けますが――」
女は言いかけて、口を半ば開けたまま静止した。そしてもともと白かったその顔色が、急に蒼白になった。
フェンリルは耳を澄ませた。そして女の顔色が変わった理由の一端を悟った。
***
***
「出て行ってください! 早く、早く――」
女が急に声を荒げたのでブリュンヒルデが気圧されたように一歩下がっていたが、それよりもヘルが気になったのはフェンリルの腹から生える《銀糸グレイプニル》の触手だった。平時は腹の中に仕舞われているそれが、幾つも這い出てきて何かを探るように中空で蠢いていた。
「何か来る」とイドゥンが呟いた。「かも」
ヘルの肩の上でじっとしていたヨルムンガンドも、首を擡げて何かを感じ取っているかのように見えた。
視線を女に戻す。彼女もイドゥンやフェンリルと同じく何かの異常事態に気づいているのか、焦りを隠さぬ様子で声を張り上げる。「早く逃げて――いや、隠れてください! あの甕の中に、早く!」
「あの龜って……どの――」
「どれでもいいから!」
女はブリュンヒルデの手を逆に掴み、小さな身体ながら勢い良くブリュンヒルデを家の奥の台所のほうへと引っ張っていく。ヘルたちもそれに追従した。
(なんだこりゃ……)
玄関のところから見たときには距離と薄暗さで気づかなかったが、台所に並んでいた甕は巨大だった。いや、ヘルが知るような腕で抱えられる程度の甕もあるにはあるのだが、いくつかの甕はヘルの身の丈の何倍も高さがあるほどに巨大だった。これほど大きくては、女には扱えないだろう。
ヘルはここに来て、ようやく気付いた。この家のあの巨大な扉やこの甕は、このサイズの生き物がこの家屋に棲んでいることを示しているのだ。獣ではないが、
この家は、亡者の家だ。
地響きのような音が響き渡った。ずん、ずん、ずんと近づいて来る肌に染み込むようなそれを身に受けて、ヘルは恐怖を覚えた。第一平面や第二平面に誕生したほとんどの亡者は、幼いうちに殺されるか、第三平面に突き落とされる。だからニヴルヘイムは亡者だらけで、ヘルもそのうちのひとりだった。そしてヘルはその中で生き抜いてきたわけだが、生き残れたのはヘルが強かったからではない。当時は幼く、女であったヘルは虚弱であり、でなくても腐り始めた下半身は生存を困難にしていた。
ヘルが生き残れたのはみっつの要因ゆえだ。ひとつは腐った下半身の形をかろうじて保ってくれる《殻鎧フヴェルゲルミル》。二つ目は手助けをしてくれた者の存在。そして三つ目は、ヘルが弱く矮小な存在であったこと。
亡者という存在がすべてそうなのかどうかはわからない――というより、己も亡者なのでそうであっては欲しくはないとは思うのだが、たいていの亡者は心が壊れている。最初は人神の心を持っていたとしても、いつしか精神が砕け、ただただ欲を満たすために喰らい、犯すだけの存在になるのだ。
であれば狙われやすいのは目立つもので、ヘルは小さく、弱く、その自覚があったからこそ霧に覆われたニヴルヘイムで逃げ回ることで生き延びることができたのだ。
亡者の形状は千差万別だが、稀に非常に巨大な亡者もいる。彼らは辺り構わず獲物を喰らい、破壊を尽くす。ヘルが〈
そしてもし、この館の主があの女ではなく、亡者であるのならば――危険だ。小さなヘルが逃げ回るのが得意だったのとは逆に、巨大な亡者はニヴルヘイムでは狙われやすい。ここの亡者はそれでも生き残るだけの力があり、そしてヘルと同じく〈世界樹〉をよじ登るだけの力があるということなのだから。ヘルは登攀の過程で巨大な亡者を倒したが、あれは地形が有利だったからに過ぎない。
(もしこんな場所で戦闘になったら――)
館の女は隠れるように提案してくれたが、それは正解だ、と近くに置かれていた梯子で甕の中へと逃げ込みながら考える。この館の主が亡者であるなら、彼は侵入者であるヘルたちに容赦しないだろう。
梯子はひとつしかなかったため、甕の中に入るには飛び降りるしかない。底までの距離を概算して中へと飛び込むと、先に甕の中に入っていた誰かに抱きとめられた。中は暗く、相手の顔など判別できなかったが、男の腕であればシグルドしかいない。ゆっくりと下に降ろされる。
ありがとう、と礼を言おうとしたが、近づいて来る足音を前にして、声を出すのは憚られた。ヘルは耳を澄ませて外の様子を伺った。深い足音、巨大な金属扉が擦れ合いながら開く音。近づいて来る重量感。
「おかえりなさい、ヒュミル」
その柔らかな言葉は、甕の外に残って梯子を外した女のものだった。
「何の匂いだ」
であれば、女に応答したヘルモードの底から響いて来るかのような声は、ヒュミルと呼ばれた亡者であるに違いがなかった。それはニヴルヘイムで長い時間を過ごしたヘルでさえ、背筋が凍えるように感じるほど悍ましい声だった。
「エリ、おまえ以外の匂いがするぞ。おれとおまえ以外の匂いだ。これはどういうことだ?」
ヘルは息を呑んだ。この亡者は鼻が良いらしい。いや、しかし犬ほどに鼻が良いのでなければ、甕の中にいることまで知られないに違いない。動かなければ安心のはずだ――エリだとか呼ばれていたあの女がうまく誤魔化してくれるだろうし。
「ええ、そうです。先ほど旅人が迷い込んできたのです。彼らはあなたが近づいて来ていることを知るや、あの壺の後ろに隠れてしまいました。ごらんなさい、あちらです」
ヘルの期待は、ヒュミルに対応するエリの言葉で裏切られた。
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