第4.13話 雷神対世界蛇 - 5
〈
どれだけ近づこうとしても、〈雷神〉の手から放たれる稲妻はヨルムガンドのことを拒否し続けた。幾つかの石塀や丘、山々を砕きながらも、しかしヨルムンガンドは諦めなかった。なぜならば、これが、これこそが、ヨルムガンドが暗い海で生きている間に追い求め続けた夢なのだから。何物にも代え難い、生きる目的なのだから。
***
***
「ヨルムガンドのところへ向かっているんだね」
とイドゥンと名乗った小柄な少女は問いかけた。全身――特に細すぎる下半身を見れば異質だとわかる鎧を身に纏ったヘルに対して怯えず、そもそも巨大すぎる魔狼に乗せられていることすらも受け入れているのだから、随分の肝の据わった娘だ。
「そうだよ。ヨルムガンドのこと、知ってる?」
と疾走を続けるフェンリルが言う。
「うん……〈世界蛇〉だね。それに、あなたたちのきょうだい」
「おまえは何者だ」
ヘルは被せるようにイドゥンに問いかけた。〈魔狼〉と〈半死者〉に怯えず、フェンリルのことはともかくヘルのことまで知り、〈神々の宝物〉まで持つこの少女めいた女が、単なるアース神族だとはヘルには思えない。
「さっきも名乗ったでしょ。イドゥンだよ」と女の平然とした態度は変わらなかった。「ロキの友だちで……ああ、アース神族じゃなくてヴァン神族だけど」
ヴァン神族。幼いためか上背は低いが、薄い色の髪や白い肌は確かにヴァン神族らしい特徴だ。だが、あの〈狼の母〉の友人だと?
「あのひとに友人がいるとは思えない」
ヘルは正直に思ったことを言ってやった。
「確かに、ロキはあんまり人付き合いは良くないとは思うけど……」とイドゥンは拗ねたように唇を突き出した。「そこまで言うほどじゃないよ」
「イドゥン、どこか安全なところはあるか?」とフェンリルが口を挟んできた。「そこまで連れて行くよ」
「ヨルムガンドのところへ向かっているんでしょう? だったら、このまま連れて行って」
「危ないよ。やめたほうがいいよ。おれもヘルに命令されているのでなければ行きたくないし」
「フェンリル」
ヘルが名前を呼んでやると、フェンリルは悲しそうに高く鳴いた。
「危ないのは知っているよ。でも、あの戦いをどうにかしないとね」
「あんたにどうかできるっていうのか?」とヘルは問う。
「難しいね。でも、トールは知り合いだから話はできる。ヨルムンガンドをあなたたちに任せられるならね」
「おれ、蛇の言葉は喋れない」
「わたしも犬の言葉はわからないけど、フェンリルとは喋れているよ」
「おれは狼だよ」
ふたりの他愛のない話を聞きながら、ヘルはイドゥンの提案について考えていた。ヴァン神族がいつの間にかアース神族に統合されていたという話は聞いている。その際に、ヴァン神族の中から和睦の証として使者がグラズヘイムへと送られたらしい。このイドゥンという娘がその使者のひとりならば、確かにアース神族である〈
〈雷神〉という人物についてヘルが知っていることはあまり多くはないが、戦士としては比類ない人物であり、アース神族と巨人族の戦争終結の立役者であるということだ。知人の少女の話を聞かないということはないだろう。問題は、彼に話をするところまで辿り着けるかどうか、だが。
いや、それよりも問題はヨルムンガンドだ。ヘルには、ヨルムンガンドと話をする自信はない。〈世界蛇〉がヘルの前に立ち塞がって〈雷神〉の一撃を受けてくれたことはあったが、あれはあくまでヨルムンガンドの戦闘行動の結果のようにも思える。
そもそもヨルムンガンドがなぜ第二平面ミッドガルドから第一平面アースガルドに登ってきたのかという理由さえ不明なのだ。きょうだいであるヘルやフェンリルのことを覚えているとも思えず、説得どころか言葉が通じる自信さえない。
だが、もともとそうだったはずだ。それを覚悟で第三平面ヘルモードを抜け出してきたのだ。きょうだいを助けたいと思ったのだ。いまさら、退くわけにはいかない。
第一平面アースガルド西部、大草原ヴィグリードは焼け焦げ剥げていて、もはや元の姿を残してはいなかった。草木は燃え、山々は砕けていた――おかげで戦っているヨルムガンドと〈雷神〉を発見するのは簡単だった。そうでなくても、ヨルムンガンドの姿は目立っていただろうが。
「トール!」
フェンリルの背中からイドゥンが叫んだが、ヨルムンガンドに対峙する〈雷神〉は動かなかった。おそらくは、聞こえていない。距離が遠すぎるのもあるが、彼らは己らの戦いに没頭しきっている。
「フェンリル、もっと近づいて!」
「近づいてったって………」
フェンリルの文句は理解できる。が、この稲妻の轟音の中では、声は届いてくれない。であれば、フェンリルに接近してもらうしかない。
(まずは〈雷神〉を止めるべきだ)
どうすれば止められるのかわからないヨルムンガンドよりも、優先させるべきは話が通じる〈雷神〉だ。怪しい全身鎧のヘルの話を聞いてもらえるかはわからないが、イドゥンならば聞いてもらえるだろう。
もし聞いてもらえなければ――槍を握り直したヘルは、〈雷神〉の武器が地面に突き刺さったときに立てる激しい振動に抗うために、己の身体を狼の上で固定するのを忘れた。
「ヘル――!」
狼の上のイドゥンが手を伸ばすのが見えたが、遅かった。ヘルは落ちた。
そして草原の――かつて草原だった、焼け焦げた野に落ちて、眼前に稲光を立てる《雷槌ミョルニル》が迫ってきたとき、何もかもが終わったと思った。《雷槌》がどこに当たるにせよ、《殻鎧フヴェルゲルミル》への衝撃は大きいだろう。《殻鎧》は亡者と化したヘルの身体を外気から守り続ける殻であり、侵食が激しい下半身が割れれば終わりだ。不思議と痛みはなかったが、《雷槌ミョルニル》の一撃を受けたのだとすれば、痛みがないのはむしろ下半身が千切れてしまったからかもしれない。一瞬先には一生に一度の痛みと、ヘルモードよりも深い場所にある死への誘いがやってくるのだろう。
しかしいつまで経っても死は訪れず――ぎゅっと瞑っていた瞼を開いたヘルがまず見たのは、狼の皮を被った男の背中。己の前に立ち塞がって、剣で《雷槌》を受け止めている姿だった。
(〈狼被り〉………!?)
色の黒い大柄な男は、頭から狼の毛皮を被っていた。狼の耳が立っているのは可愛らしいような気がしないでもないが、それが〈神々の宝物〉であるならば、その個性を示すのは愉快さではなく残虐さだ。
〈狼被り〉。それは《狼套ウーフヘジン》によってアース神族に洗脳されている人間族の兵だ。洗脳兵は〈
それなのに、この男の持つ武器は、〈雷神〉の一撃を受け止めて、刃毀れさえもしていなかった。どんな武器であれ、《雷槌》を受けて無事なものなどあるはずがない。〈神々の宝物〉を除いては。
つまりこの男は、奴隷の〈狼被り〉でありながら、〈神々の宝物〉を持っているということになる。確かにその〈狼被り〉の剣には刃にも柄にも奇妙な模様が刻んであり、装飾にも凝っているように見えた。間違いなく、〈神々の宝物〉であり、しかもそれを使いこなしている。
いや、それについては言及するほどではない。強力な武器を持たせた奴隷兵がいてもいいだろう。
問題は、彼がヘルを護ったように見えたことだ。
男の剣に受け止められたまま稲妻を撒き散らし続けていた《雷槌》は、力を失ったのか〈雷神〉の手へと戻っていく。
「大丈夫か、ヘル!?」
茫然と目の前に現れた男を眺めていたヘルのところへ、イドゥンを乗せたフェンリルが駆け寄って来る。
己と〈世界蛇〉との戦いに闖入した者たちをようやく認識して、〈雷神〉は呟いた。
「おまえは、ロキの………」
そして――ヘルたちのことを認識しておきながら、〈雷神〉はまたしても《雷槌》を振りかぶった。
「ロキはどこだ。答えないなら、消えろ」
二度目の《雷槌》がヘルと〈狼被り〉を襲った。
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