第4.8話 軍神対魔狼 - 1

軍神チュール〉は現在の状況を正しく理解しているつもりはなかったが、目の前に迫っている脅威については知覚していたために、どうするべきかということは知っていた。


 迫り来るのはかつて己の腕を齧り取った〈魔狼〉。前回は生け捕りにするようにという指示が出ていたから、絶対有利な状況だったにも関わらず手間取り、結果として片腕を噛み砕かれたのだ。あのときは《銀糸グレイプニル》を含む三重の封印を施したわけだが、その封が破られてしまったらしい。

 第一平面アースガルド、第一世界グラズヘイム、首都ヴァルハラ。幾重もの石壁に守られたこの都市の中央にある為政者の館、ヴァラスキャルヴの内にチュールはいた。片手で《魔剣ティルヴィング》を鞘から引き抜く。次は封印程度では済まさない。次は殺す。

 呑気にその捕獲を喜んでいたアース神族たちとは違い、〈魔狼〉に罪はないということをチュールは誰よりも理解していた。だが、それでも捕まえた。そして、今度は殺す。己のために。ヴァルハラに攻めてきた〈魔狼〉を殺したとなれば、巨人族との戦が終わったあとでは貴重な戦功となるだろう。亡者と化すまえに、チュールは己の名をこの世界に刻みたかった。

 轟くような足音を察知し、チュールは振り返る。壁を背にし、待ち構えていたはずだった。だから目の前にあるのはヴァラスキャルヴの壁、ただそれだけだったはずだった。


 だがその壁は崩れ去っていて、目の前には巨大な狼の姿があった。


 目の前に前回捕らえたときよりもはるかに巨大な狼の顎が現れる。日毎に吼え、手足を踏み鳴らしていた〈魔狼〉の身体は以前よりも何倍にも膨れ上がり、節くれ立っていた。顎が閉じられ、目の前が真っ暗になる。チュールは噛み砕かれながら狼の喉の奥に、以前噛み砕かれた自分の右腕を見たような気がした。


   ***

   ***


 ヘルが目覚めてまず初めにすることは、己の下半身に手を這わせることだ。半身が腐った亡者と化したヘルの生命を辛うじて保っている《殻鎧フヴェルゲルミル》がいつの間にか壊れていたとなれば、それでヘルの生命はお終いだからだ。

(大丈夫、かな………)

 むっくりと起き上がる。石床、崩れた柱、ところどころに穴の空いた高い壁。

(ヴァラスキャルヴ……だよね、たぶん)

 気絶する直前の状況から、ヘルはそう推測した。この場所を訪れるのは幼いとき以来だが、あまり変わっていないように見える。


 近くに切り口の生々しい腕が落ちていること以外は。


 フェンリルが喰った人神じんしんの腕だろう。気絶する直前、ヴァラスキャルヴの壁を壊して突入したフェンリルは、そのまま壁の向こうにいた男を喰らった。黒髪の短髪だったので、たぶんアース神族の戦士だろう。隻腕の男だった。彼を食い散らかしながらもフェンリルは暴走を続け、柱を幾つか破壊しながら反対側の壁に頭を打ち付け、それでようやく止まったのは良かったが、破壊しすぎたせいで天井が崩れてきて、フェンリルとヘルを押し潰した。よく無事だったと思うものだが、ほとんどフェンリルが盾になってくれたからだろう。

 どうやって崩れてきた天井を払ったのだろうと見回せば、仰向けになったフェンリルが足をばたばたと宙で掻いていた。目は瞑ったままなので、寝惚けているのか。とりあえず助かった理由はわかった。気絶していたのは一瞬ではなかったような気がするが、意識がない間にアース神族に襲われなかったのは幸いだった。しかし全身を打ったせいで、身体中が痛い。


「フェンリ――」

 その毛皮に触れながらきょうだいの名前を呼ぼうとして、起こしてしまっても良いものだろうかとヘルは躊躇した。つい先刻まで彼は暴走状態にあったうえ、人神ひとりを食い殺している。長い間、《銀糸グレイプニル》に苦しめられ続けたのだ。ああなるのも当然なのだが、問題はその暴走が続いているかどうかということなのだ。起こしてヘルまでも喰らおうとしてきたら、たまらない。

 そんな逡巡をしている間に、フェンリルはゆっくりと薄目を開け、きょうだいや母親と同じ金色の瞳でヘルを見た。見て、また目を閉じた。

「ねむい」

〈魔狼〉の巨体にしては可愛らしい声でそう言ったあと、フェンリルは仰向けからうつ伏せに体勢を変え、また寝息を立て始めた。ヘルはその鼻面を殴った。

「な、なんだ! 痛い……。酷い、急に暴力を振るわれた! 変な鎧のひとがいる! 怖い!」


 今度こそ覚醒したフェンリルが言い放ったのは情けない言葉だった。ヘルは大袈裟なほどの溜め息が出るのを抑えることができなかった。

「わたしだ。ヘルだ」

「ヘル?」

「そうだ。ヘルだ。覚えていないか?」

「ヘル、ヘル………」

 ヘルの名を繰り返しながら瞼を閉じていき、最後には寝息を立て始めたフェンリルの鼻面を、また殴った。

「ひ、酷い……!」

「寝るな」

「だって、眠いんだ。ずっと眠れなかったんだもの」

 フェンリルの言わんとしていることはわかる。《銀糸グレイプニル》で臓腑を内から貫かれ、狂うばかりの痛みが続いたのだ。眠ることなど叶わなかったに違いない。少しは優しくしてやろうという気にはなる。殴った鼻を撫でてやった。傷だらけではあったが、鼻はしっかりその形を留めていたし、そのほかの部位も触手が生えていた場所も《銀糸》が宿主を治療したのか、新しい傷口のような不自然な盛り上がりはないではなかったが、おおむね狼の姿を整えていた。


「いまは眠っている場合じゃない。ここはアース神族の都だ。ヴァルハラだ。ちょっとは我慢しろ」

「我慢はするけどさぁ……えっと、ヘル? ヘルか? むぅ、おかしいな。おれの妹だったら、もっと大きかったはずだが。昔より縮んでいないか?」

「おまえがでかくなったんだよ」

「鎧をつけているから顔がわからない……臭いもなんかよくわからないし。顔を見せてくれよ」

 そう促されて、しぶしぶヘルは兜を脱いだ。まだ腐食が進行していない部分が空気に晒され、心地良さを感じた。己の短い亜麻色の髪に触れると、まだ腐りきっていない自身を意識できた。

「むぅ、小さい頃の顔はあまり覚えてないが、確かに母さんに似てるってことは、ヘルなのか」

 と言われるとまた殴りたくなったが、ヘルは抑えた。こいつの場合、この表現に特に悪気はないのだから。

「でも母さんより目つきが悪いし、胸が小さい」

 ヘルは匂いを嗅いでくる鼻面を殴った。

「それに、すぐ、ぶつ……」

「わかったならさっさと行くぞ」


「行くって、どこへ?」とフェンリルは巨大な首を傾げる。「というか、ここってどこ? どういう状況なの? うわっ、お腹からなんか変なのが出てる」

 フェンリルは自分の腹から出た銀色の糸、臓腑への拘束を失った《銀糸グレイプニル》に恐る恐る触れた。痛みや拘束力は失ったようだが、傷口を治癒していることからもわかるようにいまだ《銀糸》はその力を保っているらしく、フェンリルの動きに合わせて蠢いていた。

「ひぃ、なんだこれ」

「それはグレインプニルだ。おまえを拘束していた〈神々の宝物〉だよ。もう力はないらしいけど。場所はさっき言っただろ。アース神族のヴァルハラ都だ。そこの中央のヴァラスキャルヴだ」

「ヴァラスキャルヴ……あの、でっかい塔のある建物か?」

「そうだ」

「むぅ、じゃあ母さんを助けに行かないと」

「どうして?」

「だって、ここは母さんが閉じ込められているところだぞ。せっかくここまで来たんだ。助けないと」


「フェンリル、いまはそれどころじゃない」とヘルは彼を諭そうとした。自分たちの命が危うい状況で、母親のことなど心配していられない。何よりヘルはロキが嫌いだ。「外ではヨルムガンドが〈雷神〉と戦っている。あっちをどうにかして助けないといけない。それに、わたしたち自身も危ない。あなたは一度アース神族に拘束されているわけだしな。次に捕まったら、縛られる程度じゃ済まないと思う。だから逃げよう。いまは」

「それならなおさら母さんが心配だ。巨人族だし……アース神族は巨人族と戦争中だろう。いつ危険な目に遭うかわからない」

「アース神族と巨人族の戦争はもう終わったよ。その心配はない」

「心配なんだ。ずっとずっと、ここに来て母さんを助けたかったんだ。それなのに何もできなかった。何もできないでいた――でもいまは、ここにいる。おれは母さんのところに行く」フェンリルは身体を振り、意識しての動作かはわからないがグレイプニルの糸を身体の中に収納する。「きみは逃げても良いよ。どこに逃げるのか知らないけど」

「逃げるのならミッドガルドだけど……わたし一人じゃ逃げられない」

「じゃあ、一緒に行こう」

 その申し出に逡巡を挟み、ヘルは頷いた。詳しくはわからないが、少なくともこのヴァルハラの状況は逼迫している。でなければ、中央の最重要施設であるヴァラスキャルヴの壁をぶち破ったフェンリルとヘルに対し、なんら追手がない理由がわからない。おそらくはロキもここにはいないに違いない。それならば――それならば、ヴァラスキャルヴの塔を登ることは、ほんのちょっとだけ回り道をする程度のことだ。〈狼の母〉には会わずに済むだろう。


 フェンリルの背中に跨り、毛皮を抱きかかえるように掴む。

「とりあえず塔に登るまでは良いけど……そこにいなかったら言うことを聞いて逃げるよ?」

 ヘルの念押しに答えるまえに、フェンリルは近くに落ちていた男の腕を発見した。

「ひっ、ひぃっ! にゃんか腕が落ちてるっ!」

 己が食い殺した男の腕を見つけたフェンリルは飛び上がり、巨大な図体をヘルの後ろに隠そうとした。これだけ大きく成長したというのに、性格はまったく変わっていない。呆れると同時に、ヘルはそれをとても懐かしく、そして嬉しく感じた。

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