第3.4話 狼の母ロキ、冬の海で雷神の探し物を発見すること
天を仰いでも太陽は見えない。真っ暗だ。いや、入口は空いているし、頂上も扉は空いているはずで、渦巻く螺旋階段のところどころにも採光用の小窓があるのであれば、光が完全にないわけではない。積乱雲で太陽が覆いつくされてしまったために暗くはあったが、目が慣れてくれば徐々に中の様子が見えるようにはなってきた。
(術式は……もうないか)
〈
雨が入ってきて自然に洗い落されたのか、それとも誰かが消したのか。こんな辺鄙な場所で掃除に来る奇特な
「暖かそうだな」
とトールが声をかけてきたのは、ロキが己の羽で身体を包み込んでいたからだろう。雨が降り始めるまえに灯台の中に避難はできたが、気温はだいぶん下がっていた。常夏の第一平面アースガルドに近い〈
ロキは己の片羽を広げ、その羽を曲げて手招きをしてやった。「一緒に入る?」
「動けなくなるだろ」
とトールは誘いを跳ね除けた。少し残念に感じたが、提案を受け入れられたら受け入れられたで困ったに違いないので、良かった。危なかった、とロキは思った。
「トール、それで、まだ聞こえる? ミョルニルの音」
「雷が鳴ったときに聞こえるんだよなぁ」とトールが言ったときにちょうど雷が落ちた。さっきよりも近い。「うーむ……上かな? 上か、下か?」とトールは顎に手を当てて、壁沿いに歩き始める。雨で漏れ出す土と埃の匂いの中、ロキは彼のあとをついていく。
「下って、なに? ここ、地下室とかないよね?」
「知らん。ただの灯台だろ、ここ。地下室なんてあるわきゃない……上か?」
返事も期待せずにトールはそのまま螺旋階段へと向かって行ってしまう。ロキは念のため、闇に慣れた目でぐるりと周辺を見回してみたが、地下室への秘密の入り口が隠されているようには見えなかった――実際に隠されているのだとすれば、素人のロキが見つけられるわけがないのだが。
入口の近くでもたもたしている間に金属入りのブーツを履いたトールの硬い足音が階段を昇って行っていたが、急にそれが止まった。
「トール!?」
不安になり、慌てて翼を広げて飛ぼうとするが、土埃が舞い上がってしまい、飛べずに噎せた。
「おい、おまえはなにをやってんだ」と呆れたような声とともに、トールが下りてきた。どうやらロキのことを待っていて立ち止まっていたらしい。喉の調子を整えながら彼にもとに近づくと、手を取って引いてくれた。おそらくはトールよりもロキのほうが暗さには強いと思うのだが、彼の気遣いも手も暖かかった。
螺旋階段を昇っていく間、響くのはトールとロキの足音、それに雨音だけだった。対流活動はひとまず穏やかなものとなり、雷はもう止んでしまったらしい。雨だけは強くなっている。
「暗いね………」
ロキの言葉に、トールは頷くだけで返してきた。彼の歩幅はロキよりもずっとずっと大きかったが、いまばかりはロキにその足を合わせてくれた。
ミョルニルらしき影は見当たらない。ミョルニルは大きさをある程度変化させることができる道具ではあるが、スリュムヘイム攻略戦で使用した直後にここに忘れ去られた――あるいは何者かの意図があって隠されたのであれば、巨大なサイズなままだろう。空から探すならともかく、この灯台の中で見落とすはずがない。
「あ………」
螺旋階段を四割程度登ったところで、ロキは階段の上に何かが光っているのに気付いた。金色の光を放つその物体はある程度の大きさを持っている。まさかこんなところに巨大金塊が落ちているわけはないだろう。ミョルニルだろうか。
「なんだ、ミョルニルか?」
トールも気付いたようで、早足に歩み寄っていく。ロキはほとんど駆けるようにして彼に追い縋った。
もしトールと手を繋いでいなければ、ロキは自分のペースで歩いていただろう。そうしていたなら、気付いていただろう。仄かに光を放つその物体が、ロキの――〈
それはミョルニルではなかった。だが〈神々の宝物〉ではあった。金色に光っているものは巨大な一つの塊ではなく、九つの小さな塊が鎖で環として繋がれていた。九つの金色の腕輪で作られた、さらに巨大な一つの環。ロキはその正体がなんなのかようやく捉えられるようになり、それがこの場に相応しくないものであることに気付く。
(九還ドラウプニル……!)
「なんだ、これ。おい、ロキ、これって〈神々の宝物〉じゃあないか?」
トールが連結された九つの輪に手を伸ばすまえに、その輪はばらばらになり、九つの腕輪に変化した。腕輪はロキを取り囲むように散らばり、これまでよりも強い光を発する。暗かった周囲が急に眩しくなる。
冷たい。
鼻から口から何かが入り込む。
身体が重い。
周囲は水に包まれていた。
ロキは慌てた。慌てる。それは当たり前だ。灯台の中にいたはずが、目の前が急に海になったのだ。慌てない人神はいない。
だがロキは目の前の状況に慌てながらも、その状況に陥った理由については理解していた。
《九還ドラウプニル》。
一見腕輪を連結した、どのように身に着けるのかわからないような装飾品について、ロキが知っていることは僅かだったが、その僅かな知識は己の現状を把握するのに十分だった。ドラウプニルは特定の人神に反応して九つの連結した輪が分離し、分裂した輪でさらに大きな輪を作る。そしてその輪の中に入った対象を、別の場所にある九つの腕輪のある場所へと転送する。
そう、ここは――ここはいままでいた場所ではない。目の前が急に海になったのは、灯台が海に呑まれてしまったからではない。ロキがドラウプニルによって転送されてしまったのだ。
原因は、わかった。それで、それで――それで、どうする?
冬だ。冬の海なのだ。身体は濡れ鼠、体温が急速に奪われている。とにかく海面まで出なければと、羽を最大限に広げて浮力をつけ、なんとか浮き上がる。海上はものすごい豪雨だった。雷鳴が鳴り響き、ときたま明るく光る。見回すが、周囲に陸地のようなものは一切見えない。
(トールは……!?)
呼吸ができるようになって、ロキは同行者の安否を気遣う余裕が生まれた。ドラウプニルに囲まれたときにトールも一緒にいたのだから、彼も一緒に転送されているはずだ。まさか海に落ちた衝撃で気を失ってしまったのか。転送される直前に《九還ドラウプニル》を認識して警戒したロキと、完全に油断していたトールでは海の中に転送されたときの対応も違っただろう。海水を一度に吸い込んでしまったのかもしれない。
深呼吸をしてから、羽を縮めて海の中へと身体を埋める。
海の中は暗かったが、ときたま稲光が深くまで海中を照らしてくれたおかげでロキは沈んでいく〈雷神〉の身体を見つけた。目を瞑ったまま、頭を下にして落ちている。やはり気を失っているのだ。海水を羽で掻き分け、なんとかトールのところまで辿り着く。トールは息をしていないように見えた。
唇をトールの口に当てて、息を吹き込む。効果があるのかはわからないが、しないよりもましだろう。羽を丸く広げて海面まで上がった。
「トール!」
叫んでも、〈雷神〉の意識は戻らない。呼吸もやはり止まっている。心臓の鼓動まで確かめている余裕がない。海面で浮いたまま、もう一度人工呼吸を試みる。呼吸は戻らない。このままではトールは死んでしまう。だがロキにしても時間の問題だ。掴む舫さえないこの冬の海の真ん中で、この寒さは絶体絶命だ。寒い――寒いのか? ロキはだんだんと己の感覚が麻痺しつつあることに気付いた。いつの間にか、寒さを感じるよりも、四肢の末端はむしろ暖かささえ感じ始めていた。そのくせ震えが止まらない。不味い。間違いなく不味い。陸地に、陸地に上がらなくては――無駄だと知りながら陸を探したロキの瞳に、盛り上がる丘陵が飛び込んできた。陸だ。見える。距離はある、が、飛べない距離ではない。雷雨は苦しく、トールも重いのは知っているが、まだ死ねない。
翼を広げようとしたロキの目の前で、その陸地はさらに盛り上がり、まるで海面にそそり立つ塔のようになった。陸ではなかった。
〈
ロキの産んだ3人の子のうちのひとり。
ロキとトールのことを一呑みにできるような巨体でありながら、〈世界蛇〉は海の上に浮かぶ小さなふたりの人神を目敏く見つけ、観察するように見下ろしていた。
「あ………」
ロキは己とよく似た金色の瞳と目が合うのがわかった。この瞳。この瞳はいったい何を考えているのだろう。怨みだろうか。〈世界蛇〉が赤い舌をちろちろと口の端から食み出させてから口を大きく開くのは、己をこんな身体にした原因である〈狼の母〉を殺したいからだろうか? それとも単に食いでのなさそうな小さな生き物だがせっかくだから食べておこうと思っただけだろうか?
目の前は〈世界蛇〉の口内で真っ赤になり、次に完全に口の中に入り込んだことで真っ暗になった。そして次には真っ白になった。
「この糞蛇がぁっ!」
気絶していたはずのトールの大きな拳が、ヨルムンガンドの口内の――たぶん喉のあたりに叩きつけられていた。覚醒した〈雷神〉の一撃はしかしそれだけで収まらず、稲光が迸り雷が落ちた。
〈世界蛇〉はまるで咳き込むようにロキとトールを空中へと吐き出した。
(トールのミョルニルって、もしかして………)
ロキは見た。トールが拳をヨルムンガンドに叩きつけられたとき、〈世界蛇〉の喉の奥からまず紫電が迸ったことを。
ロキは感じた。所有者であるトールの呪力に励起され、手元から離れていてもその魔力を発揮した〈神々の宝物〉の存在を。
ロキは気付いた。〈雷神〉の探し物が〈世界蛇〉の体内にあるということを。
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