第3.3話 狼の母ロキ、血の術式を残す灯台へと赴くこと
「フレイ、幸せそうだったねぇ」
雑談であれば、特段の洒落た返答を期待したわけではない。だが返答が「あ?」であれば、ロキは残念に感じた。もう少し情緒のある返答が欲しかったのだ。
「フレイだよ、フレイ。結婚してさ」
「ああ、フレイね」
「綺麗なひとだよね、ゲルド。金髪がくるくるで………」
「まぁ、確かにアースガルドではあまり見ない風貌ではあるな」
だだっ広い草原に馬を走らせるトールの視線はただただ彼方へと向いている。彼の現在のご執着は《雷槌ミョルニル》にしかないらしく、これでは後ろで抱き着いているロキの甲斐がない。
「トール、女性のこと、ちゃんと可愛いだとかそういう区別ってつく?」
とロキは溜め息を吐きながら小馬鹿にしてやった。すると戻ってきたのは「女の子のことはだいたい可愛らしいと思っている」という意外過ぎる返答で、返す言葉に詰まってしまった。まさか〈
「そんなことより、ロキ、いったいどこを探せばいいってんだよ。上から見ても見えなかったんだろ? もう巨人族が持ってっちまったんじゃないのか?」
トールの言うとおり、スリュムヘイムを出て〈
「バルドルも言ってたでしょ。フルングニルはミョルニルを持ったトールを恐れたからこそ、〈神々の宝物〉を使っての戦いを避けてたんだよ。ほんとはトールは負傷していたし、ミョルニルも失くしちゃってたのに。だから巨人族はミョルニルのことなんて知らなかったはずだよ」
そもそもいくら巨大なハンマーとはいえ、
「トール、最後にミョルニル使ったのはスリュムヘイム攻めのときだよね? わたしはそのとき近くにいなかったから知らなかったけど、トールは世界蛇……」ロキはその名を出すのに少しばかりの気概を必要とした。「ヨルムンガンドと戦ってたんだよね?」
「そうだな。アース神族の砦があったあたりで……もうないけどな」
スリュムヘイム攻めのときに使われていたアース神族の砦は〈
「砦の跡地はバルドルやヘズが探させたと聞いている。バルドルのことだから、人員を使って念入りに探させただろうし、それで見つからないんだったら砦の辺りにはないんだろうな」
アース神族がその生命線である《雷槌ミョルニル》を隠すはずがないし、巨人族が奪ったわけでもない。戦闘跡地にもなかった。
「うーん……じゃあ、あとは――」
「ヘイムダルか」
「へ?」
意外な名前が〈
「あの日、な。いたんだよ。あいつが。いつも間にか、砦まで登ってきやがった」
トールが説明するところでは、あの〈
これまで目に見える速度ではほとんど動いているように見えなかった〈白き〉が、まるで並みの人神のように動いたというのは珍しいことだが、これまでにはなかったことではない。〈白き〉の時間の流れはロキやトールとはまったく違うが、彼はこの世界に対応しつつある。その順応が時折強く現れているのだろう。おそらくそれを励起させたのは、大怪我を負ったロキが作り出した〈
「それで……どうなったの? ヘイムダルは」
「どうなったんだろうな、そういや」とトールは手綱を握っていないほうの手を顎に当て、首を捻った。「ううん? あの馬鹿蛇の攻撃で砦が崩れたとき、ヘイムダルもあの場所にいたはずだが……バルドルたちはヘイムダルの死体が見つかっただなんて話はしていなかったな」
それはそうだろう。彼がそう簡単に死ぬはずがない。生きているかどうかさえわからない存在だ。
とはいえ〈世界蛇〉の攻撃を逃れられるほどに九世界の速度に対応しているとは思えないので、おそらく砦を崩すほどの衝撃を喰らったときにどこかへ弾き飛ばされたのだろう。近くの海へ沈んだかもしれない。そうだとしても、彼は死んではいないだろうが。
ロキの〈泥の巨人〉の魔術や、魔法そのものを体現しているような〈
トールにそんな説明ができたわけではないが、とにかくロキはヘイムダルが《神々の宝物》を盗んだとは思えないということを伝えた。それに対するトールの反応は「ま、そうだろうな」という簡素なものだった。彼も、あの物言わぬ石像にしか見えない〈白き〉が物を盗むだなんてことをするとは思ってはいないらしい。
「ただ、そうするとますますミョルニルがどこへ行っちまったかがわからねぇ」
馬の背に乗ったまま、トールは器用に腕を組んで身体を逸らし、天を仰いだ。後ろから彼の背中に抱き着いている格好のロキも仰け反る。青かった空は、いつの間にか黒々とした雲に覆い隠され始めていた。太陽の近くまで暗雲が伸びている。
「まずいな、雨が来るぞ」とトールは舌打ちする。「とはいえこのまま手ぶらで帰ると、バルドルに大目玉を喰らうな」
「雷が落ちるね」
などと言い合っていたときに雷が落ちた。もちろんそれはバルドルのものではなく、《雷槌ミョルニル》によるものでもなかった。天から弾かれた稲妻は遠くの山間に落ちた。雷鳴が遅れて響いた。
ロキは息を吐いた。いまごろフェンリルはどうしていることだろう。穴の開いた洞穴の中、独り雨に打たれているのだろうか。血液と涎を撒き散らし、臓腑を貫く糸の痛みに耐えているのだろうか。
「うん?」
と、急に前のトールが辺りを見回し、何かを探るような様子を見せ始めた。
「なに、どうしたの?」
「静かに」
稲妻が走る。遅れて雷鳴。まだやはり遠い。
「ミョルニルっぽい音がした」
「え?」ロキは驚く。「なに、ミョルニルっぽい音って。叩く音?」
「いや、ミョルニルっぽい音なんだが……」眉間に皺を寄せるトール。「説明し辛いな。ミョルニルが何かに衝突音と同時に聞こえる音みたいな、そんな感じの。高い、金属が擦れるみたいな音だ。聞こえないか?」
ロキは首を振った。トールの言うような音が具体的にイメージできたわけではないが、雷の音以上に特殊な音は聞こえなかった。
しかしミョルニルの動作原理を思い出せば、トールの言っていることがあながち妄言ではない可能性もある。〈神々の宝物〉は外部から供給された呪力を変換する道具だ。基本的にその力は力学的なものに変換されるが、無駄のない呪力の変換などありえない。微小ながらも熱や音にも変換されることだろう。今の雷がどこかにあるミョルニルを励起させ、特定の波長の音としてルーンが消費されたという可能性はありえる。長年ミョルニルを使ってきたトールには、そのミョルニルが発する音の波長を捉えられるようになったのかもしれない。
「わたしには聞こえなかったけど、でもありえるね」と言ってロキは自分の考えたことを説明した。
「おまえが言っていることはさっぱりわからん、が、音がしたほうにミョルニルがあるというのはわかった」
「まぁ、そうかな。で、どっち?」
トールが指差した方角は、海だった。いや、海の手前に灯台がある。スリュムヘイムの砦から逃れたロキとイドゥンが逃げ込み、〈
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