第2.14話 半死者ヘル、火炉番の娘を知ること

 目覚めたときは寝台の上だった。腕も腹も、触ってみると頭も顔も身体中が包帯や固定具だらけで、吐き気と頭痛がした。しかし吐こうと思っても口からは粘つく液体が出てくるだけであり、頭痛を解消しようにも剣がなければ頭を切り開いて原因を除去するのは不可能だ。狭い中に寝台と窓だけがある部屋でしばらく悶えていたが、やがて女がやってきてたいそう驚いた表情をした。エイルという女だ。ア―ス神族だ。

「3日ぶりに目覚めたんですよ」

 そう言われて、フレイは驚くよりも笑ってしまった。3日? なるほど、それは随分と寝坊してしまったようだ。それだけ眠ったなら、この覚束なさも仕方がない。ここはスリュムヘイムのシアチの館だろうか。手を開き、閉じる。感覚が曖昧だ。右手、左手。右足。ふらつく。左足に至っては動かすことすらできない。存在しないのだ。笑えてくる。戦闘中はぼろぼろに炭化した物体がくっついていたのだが、さすがに元通りにはならなかったか。


(これではもう戦えないな………)


 エイルがこの3日間に起きた出来事を滔々と語っていたが、右から左に聞き流しながら己の身体を確かめる。あれだけの戦闘があったにも関わらず、両の指は揃い、鼻も耳も付いている。失ったのは左足だけだ。随分と幸運なことだ。妹を守ってくれている〈軍神チュール〉は〈魔狼フェンリル〉に片腕の肘から先を喰われたが、未だに前線に立ち続けている。

 剣は片手でも握れる。だが片足がないとなると、簡単にはいくまい。馬に騎乗していれば片足の不利は埋められるだろうが、一度落ちてしまったらもうお終いだ。


(もう戦えない………)


 もう一度、その意味を噛みしめる。

「フレイ。申し訳ありません」

 己の失った足に思いを馳せている間に訪ねてきた者が何人かいた。最初のひとりはウルだった。

「こんなはずじゃありませんでした。こんなはずじゃあ……あなたが危なくなったら、助けるつもりで………」

 ウルや弓の腕前に自信のあるア―ス神族が決闘に横槍を入れようとしていることは予想ができていた。だがフレイはフルングニルの行動理念や決闘の提案理由について訊きたかったし、魔法を見られたくはなかったために敢えて射手がいそうな位置から遠ざかりながら戦っていた。だが、フレイは「おまえのせいじゃない」などとは言わなかった。代わりに「街はどうなった?」と訊いた。

「フルングニルが死んだことで、敵軍は瓦解しました。少々小競り合いがあり敵味方ともに小競り合いがありましたが、死者は少数です。スリュムヘイムでは街の外の巨人族の攻撃に合わせて武器を取ろうとしていた市民がいましたが、実際に行動に起こすまえに拘束できました。斥候も出しましたが周辺に敵影はなく、現状スリュムヘイムは安全です」

「そりゃ……良かったな」

「あなたのおかげです」

「そうだろうな」

 それだけの言葉で返すと、ウルは次に返す言葉が見つからないようだった。「そういえば」とフレイは訊いてやった。「ユングヴィはどうなった? おれの剣だ」

「あれは……いちおう、回収はしましたが………」

 もはや〈金の鬣フルングニル〉の〈神々の宝物〉は赤く燃えて輝いてはいないという。だがその光を失い、熱が解け、使用者を失ってもなお、 《赤球ギャルプグレイプ》の鎖は3日前の決闘のときと同じように《妖剣ユングヴィ》に絡み、双球はさながら錠前のように癒着してしまったのだという。

「力ある者何人かに試してもらいましたが、びくともしません。あれはもはや………」

 武器として用は為せないと、ウルはそう言いたいらしい。

(ロキなら引き剥がせるもしれないな)

 彼女が持つ手斧、たしか《炎斧レヴァンティン》だとかいったか、石壁もチ―ズのように切り裂くあの斧は〈神々の宝物〉さえも破壊することが可能なのだと、以前に聞いたことがある。とはいえ、わざわざそれを提案しては藪蛇だ。


 ウルが去ったあとに来たのは赤髭に赤髪の大男だった。

「思ったより元気そうだな」と〈雷神トール〉は言った。

「なんで男が連続で来るんだ」

「おまえの妹なら街に出かけてるんじゃないか? 目を覚ましたのを知ったら飛んでくるだろうけどな。ロキには許可が出ないだろうな。ほかに訪ねてきそうな女がいるかい?」と言いながらト―ルは近くに置かれていた物品の入った木箱を引き寄せ、腰掛けた。「勝ったようで何より」

「あんたならもっと簡単に勝てたんだろうけどな」

 そう言ってやったが、それは嘘だ。フルングニルという男は〈神殺し〉の異名に恥じぬ力を持った男であり、力も体格も同等以上だった。〈神々の宝物〉の性質は《雷槌ミョルニル》も《赤球ギャルプグレイプ》もよく似てはいたが、より雷を通して広範囲へ力が拡散するようになっているミョルニルよりも、単独の相手ならばギャルプグレイプの研ぎ澄ませた一撃のほうが有利だろう。〈巨人殺し〉が決闘の場に立っていたら、〈神殺し〉に敗北していただろう、というのがふたりの男と実際に立ち会ったフレイの感想だった。

 ト―ルも言葉をそのまま鵜呑みにしなかったのだろう、鼻を鳴らしただけだった。フレイと立ち会ったとき、彼の〈神々の宝物〉はフレイの身体に傷一つつけることができなかった。それが彼とフルングニルとの差だ。


「フレイ!」

 扉はそのまま蝶番が弾け飛び、砕けるのではないかという勢いで開いた。《金環ブリ―シンガメン》の封印が解けているのではないかと思うほどだったが、きちんと〈神々の宝物〉を首から下げていた。

「あぁ、良かった、良かったぁ………」

 栗色の髪の娘は寝台の上に飛び乗り、ト―ルを見送って半ば身体を起き上がらせたフレイに抱き着いてきた。〈神々の宝物〉によって力を抑えているとはいえ、生来の馬鹿力である。傷が開きそうな痛みに顔を顰めかけたが、ふと入口に隻腕の男が立っているのが見えた。フレイはイドゥンを抱き締め返し、〈軍神〉の見ている前で妹の髪を撫でてやった。チュ―ルの反応は特になかったが、フレイは愉快な気分になった。

「心配したよ。すごく……ほんとにすごく、心配したよ」

 身体を離して、イドゥンは言った。彼女はフレイの魔法の力を知っており、であれば〈神々の宝物〉を使わない決闘においてフレイが負けるなどとは些かも思っていなかったに違いない。フレイにしても、彼女が《金環ブリ―シンガメン》を外して戦うのであれば、心配するのは彼女よりもむしろ相手のことだ。

 だが勝つと思っていることと、心配しないことは別だ。剣を使っているのだ。刃の先に胸を置いているのだ。ひとつきりの命をいつ失ってもおかしくないのだ――今回フレイが失ったのはふたつある足だったが。

 フレイはもう一度、妹を抱きしめた。今度は〈軍神〉に見せつけるためのものではなかった。愛情を込めたその抱擁は、最終的にはイドゥン自身から無理矢理引き剥がされるという形で終わった。


 その後も何人も見舞いが来た。彼らはフレイの功を讃え、足の傷――傷とさえ呼べないような欠損を労ったり、あるいは完全に無視したりした。フレイにとって、それはどちらでも良かった。彼らはフレイが会いたいと思っても招いた相手ではないからだ。


 夜。虫の音さえも死者の国に旅立ってしまい、音のなくなった闇夜の中に待ち望んでいた客がいた。

「フレイ………痛かった?」

 ロキがそう尋ねたのは、以前と同じように窓から飛び込んできたときに着地に失敗してフレイの胸元に不時着することになってしまったからではないだろう。寝台の横に腰掛け直しながら、彼女の視線は何もない場所に――つまりフレイの左足がかつてあった場所に向いていた。

「痛みはないよ。3日も寝ていたし、でなくても、痛みを感じる場所がないんだからな」重苦しい言い方にならぬよう、フレイは笑ってやった。「もっとも、チュ―ルが言うことにゃ失っても痛みを感じることはあるみたいだけどな」

「そう……なんだ………」

 ロキの白い手がフレイの下半身へと動いていた。短くぷっくりと肉付きの良い指が左足があったはずの何もない空間を撫でた。

「ロキ。もう何人かには話したよ。おれはもう戦わない。片足はこれだし、ユングヴィも使えない。だから戦えないし、戦わない。ア―スガルドに戻るよ」

 ロキにとってもそれは予想できたことなのだろう。目を細め、小さく頷くだけだった。予想できる? 当たり前だ。片足にもなって戦う人間はいない。片腕になって戦うのは〈軍神〉くらいだ。頭を半分失っても戦えるのは《狼套ウ―フへジン》を身に纏った〈狼被りベルセルク〉くらいのものだろう。


 そのことは、もういい。


「おれは駄目だ。いや、もともと駄目なやつだったんだ。本当は戦うのなんて嫌いなんだ。飯を食って、女の子に触って、糞をひり出して、そうして過ごしていたいだけなんだ。戦う快楽も勝利の栄誉も欲しくはない。傷つけられたくないし、傷つくのもごめんだ。ただ、父親に言われたのと、イドゥンを守りたくて戦っていた。だから……だからア―ス神族をどうにかしてやりたかった。戦争の種ばかり作るア―ス神族を。どうにかしてア―ス神族を殺し尽くしてられればと思った。おれには無理でも、誰かもっと力があるやつがいれば、その手助けができるかも、と。だがそれも終わりだ。もう……もうおれには何もできない」

 ロキは黙って話を聞いてくれた。だからフレイは滔々と言葉を投げかけることができた。

「でもおれは、ここでやり残したことがある。ロキ、教えてくれ。あのあと、どうなった? ゲルドは見つかったのか? ユングヴィは守り切れたのか? それでどうしてユングヴィがおれのもとへ飛んできたんだ?


 問いに対し、〈狼の母〉はぽつりぽつりと語ってくれた。決闘前夜、《妖剣ユングヴィ》を抱えてスリュムヘイムを飛び回ったこと。ついにゲルドを見つけたこと。事情を説明しユングヴィを預けたものの、すぐにシアチの館へと引っ返したこと。〈雷神〉に助成を願ったこと。飛んでいこうとしたものの、力尽きて屋根の上に不時着してしまったこと。

「そりゃあ、あのでかぶつを運ぶのは無理だろう。おまえの3倍は体重がありそうだ」喉を鳴らしてフレイは笑った。作り笑いではない、素直におかしく思っての笑いだった。

 ロキにとって、決闘までに起きた出来事はそこまでだった。いや、彼女は決闘の最中、飛んでいくユングヴィの影を見たのだらしいが、なぜあの〈妖剣ユングヴィ〉が勝手に飛び立ったのかは知らないという。

(ユングヴィは………そういう剣だ)

 問いを投げておきながら、フレイはそんなふうに自己完結していた。父親から渡された〈神々の宝物〉は自分で考える力を持っていた。ゲルドよりフレイのことを優先させたのかもしれない。実際、それでフレイは助かった。


「それで、彼女は……ゲルドは?」

 そう問わずにはおられなかった。ウルはスリュムヘイムでこれといった事件は起きていないといったが、彼が言っていたのは兵に関してだろう。一般市民のことではない。

「泣いてた」

 それは決闘で〈金の鬣〉が死に、フレイが死にかけの状態でスリュムヘイムに戻ってきた翌日のことだったという。決闘の顛末が巨人族たちの噂にも昇ったあと、ゲルドは己の店を開けず、ただ閉じこもっていて……夕方になって出てきたとき、彼女は目を赤く腫らし、瞳に涙を溜めていたのだと。

「わたし、何も言えなかった。ごめん。フレイはもしかしたら死んじゃうんじゃないかと思ったから。だから、下手に元気付けたりなんてできなかった」

「怪我をしていたりだとか、そういうことはなかったか?」

「なかったよ。少なくとも、フレイほどには」

 ロキの冗談にフレイは笑ってやった。「そうだろうな。おれ以上に酷いのはフルングニルしかいない……それで、そのあとは?」

「会ってない。フレイのこと、知らないかもしれない。わたしもフレイが目を覚ましたのは、さっき知ったばかりだし……連れてこようか?」

 フレイは首を振った。自分で行かなければいけないと思ったからだ。このひとつきりの足で。


 ロキが窓から出て行ってから、フレイはひとり夜の闇の中で思いを馳せた。ただひたすら――ひとりの女のことを。想像の中でゲルドは服をはだけ、下着を淫らに脱いでいた。まるで精通したばかりの少年のような妄想だった。妄想はぬるぬると溢れ出て時間を汚していった。長い夜だった。決戦前夜よりも、これまでのどんな夜よりも。


   ***

   ***


 ヘルは己の足に手を這わせた。《殻鎧フヴェルゲルミル》の冷たく硬い感触がある。他人が見れば、この足はどんなにか不自然に見えるだろう。鳥のように奇妙に捩じくれてしまった足は。〈神々の宝物〉はその捩じくれた足にぴったりなので、間違いなく人目を引く。さりとてほとんど腐ったこの足は〈神々の宝物〉の力がなくては鳥のような足を保つことさえ不可能なので、少なくとも下半身は常に鎧を身につけておく必要がある。

 だからヘルは下半身を闇夜に紛れて盗んだスカ―ト状の布で覆い隠し、さらに上からはこちらも盗んだ外套を着て、下半身の不自然さを隠そうとしていた。少なくとも、このスリュムヘイムという街に入ってから、小柄な女ということ以上に因縁はかけられていない。冬が近いために厚着が不自然ではないのは幸いだった。


(治安は悪くなさそうだな………)

 長い時間を第三平面ヘルモ―ドで過ごしていたため、治安などという概念は忘却の彼方にあったように感じていたが、血も槍も見えぬ空間に安堵できる心は未だ残っていてくれた。

 スリュムヘイムはア―ス神族に支配された巨人族の街であったが、抑圧の重みは感じられない。それだけア―ス神族の戦争が優勢ということなのだろう。余裕があれば、略奪や強姦にまで手は伸びないものだ。

 ヘルの容姿は――少なくとも上半身に関しては――巨人族に近い。母が、いや、ヘルを産み落とした女が巨人族だからだ。だが不審な旅人であることは間違いなく、だから街が緊張状態で外部の者を受け入れる余裕がないなどということがなくて助かった。


 ここ数日、ヘルはヨルムンガンドを探すために海沿いへ行ってみた。〈世界蛇ミズガルズオルム〉と呼ばれるほどの巨大な蛇であれば簡単に見つかるかもと思っていたが、それは物事を簡単に考えすぎだということがわかった。ものは試しと近くの農家から牛を盗み、屍から生命力を奪うついでに頭を切り落として餌代わりに釣り針を投げてみたが、これも手応えがなかった。

(いっそのこと、先にフェンリルに会いに行こうかな………)

 ヨルムンガンドはつい最近、ア―ス神族の〈雷神〉と戦い海の向こうまで吹き飛ばされたということ噂を聞いた。このまま放置しておくと殺されかねないという不安と、その巨大さゆえに簡単に見つかるかもしれないという期待を持っていたのだ。ア―スガルドで〈神々の宝物〉によって束縛されているというフェンリルと違い、ヨルムンガンドは自由に動き回ることができる。逆にいえば危険も多く、また戦に割り込んでト―ルと戦ったりでもすれば、今度は怪我だけではすまないかもしれない。

 とはいえこの街にア―ス神族が駐屯している間は、虹の架け橋ビフレストを使って第二平面から第一平面に向かうのも一苦労だ。彼らが進軍するのを見届けるまではもう少しミッドガルドで〈世界蛇〉探しを続けるべきだろう。


「おい、見たか?」

 昼餉ついでにヨルムンガンドの情報を得るために、軒先にテ―ブルを広げた飯屋のテ―ブルでひとり食事を取っていると、濁声の男の声が耳に入ってきた。隣席の中年の巨人族の男だった。ヘルは男に気づかれないように男の話に聞き耳を立てた。

「あれだよ」

 男が角杯を握ったまま差し出した腕の先には、去りゆく男女の姿があった。ひとりはおそらく巨人族の女性。小柄で、稲穂のような豊かな金髪を携えた女性。もうひとりは、おそらくヴァン神族の長身の男。彼は左足から下が木製の義足で、左手には杖をついていたが、右手は同行者の女の手を握っていた。

「フルングニルの妻だったゲルドだよ。なんだって、あんなやつと……フレイとかいったっけ、フルングニルを殺した男らしいじゃないか」

「あれは良い男だよ」と男の妻か、あるいは娼婦だろう同席している年嵩の女が言った。「ア―ス神族とは違う。まえにも巨人族を助けてくれたんだから」

「だからって、なぁ、ヴァン神族の男と結婚するだなんて………」

 ヘルはテ―ブルを立ったため、その後に彼らが何を話したのかはわからなかった。去り際、噂をしていたふたりから、去りゆくふたりの男女のへと視線を移す。並んで歩きながら、何か冗談でも言い合っているのか、ゲルドという女はくすくすと笑っていた。フレイという男も。

(自分には関係のない話だ)

 ヘルは呪われている。フェンリルも、ヨルムンガンドも、そしてあの女――ヘルたちを産んだ〈狼の母ロキ〉も。だからきっと、あんなふうに幸せな笑みを交わすことはできないだろう。それでもヘルは、生きている。少なくともいまのところは、まだ。

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