第1.18話 魔狼フェンリル、その遠吠えが木霊すること

 イドゥンは人気のない草原を歩いていた。一度は血生臭い争いの舞台になった草原ではあるが、豪雨に洗い流されたことで血そのものは痕跡を残してはいない。それでも、折れた武器や砕けた砦、突き刺さった矢、そして変わってしまった地形を見れば、激しい戦が思い出せる。


 第二平面ミッドガルド西、第一平面アースガルドとの架け橋であるビフレストの傍らで起きたアース神族と巨人族の最初の交戦は、巨人族の要塞都市であるスリュムヘイムをアース神族が陥落させたことによって決着が着いた。

 勝った。結果だけを見ればそれだけだが、これまでの戦争にはなかったことがいくつもいくつも起きた。


 たとえばトールが負傷したこと。

 〈巨人殺し〉の異名で恐れられる〈雷神トール〉は《雷槌ミョルニル》が役立たずになる乱戦においても、斧を手に前線に出る勇敢な兵士であった。であれば傷のひとつやふたつは日常茶飯事ではあったが、立っているのがやっとというほどまで負傷することなど前代未聞だった。

 とはいえその傷を負わせたのが第二平面ミッドガルドに巣食う世界蛇ヨルムンガンドであれば、さすがの雷神でも仕方がないとしか言いようがなく、むしろ大怪我を負いながらも〈世界蛇〉を退けたとなれば、流石は〈雷神〉と褒め称えられることとなった。


 たとえば泥の大巨人ミストカーフが戦場に現れたこと。

 9体いた泥の大巨人たちは、1体は白きヘイムダルによって、2体は世界蛇ヨルムンガンドによって、2体は雷神トールによって、そして残りの4体はフレイによって討伐された。

「弱点が心臓らしいというのはトールのおかげでわかっていたからな。どこを狙えば良いのかわかっていれば、巨人族相手よりも楽なもんだ」

 と戦後にフレイは嘯いていたが、イドゥンは知っている。いかに自由に空を飛ぶ妖剣ユングヴィを持っていたとしても、泥の大巨人を殺すのは容易ではないということを――たとえ不完全なものであったとしても。


 たとえばイドゥンが攫われたこと。

 その場の状況だけを見れば、イドゥンを攫ったのはロキだ。だが幸い、諸悪の根源はロキではなく、巨人族のシアチだというイドゥンの主張は跳ね除けられなかった。攫われた当人が庇ったことも良かったのだろうが、ロキがイドゥンを助け出すために危険を冒したことや、その結果として怪我を負ったことが情状酌量となったのかもしれない。ロキは治療を受け、容態は回復しつつある。たぶんトールよりも早く元気になるだろう。

 だがスリュムヘイムの砦を治めていた巨人族、シアチは戦乱の最中で死亡してしまっており、彼がイドゥンを攫い、オーディンを捜そうとしていた目的についてはついぞ聞きだすことができなかった。


 たとえば――白きヘイムダルが現れたこと。

 イドゥンはスリュムヘイムから逃げる際にロキとともに身を隠した灯台の入り口の鉄扉を開いた。灯台の中は血塗れだった。

 単にロキの手当てをしたから、雨風が吹き込まない建物の中だから、といった理由程度でこびり付く血ではない。そもそも、血は床だけではなく、壁にも飛び散っているのだ。いや、書き込まれているというべきか。血痕ではない。血文字だ。

(ミストカーフの生成術式………!)

 イドゥンは大きく深呼吸をして鼻から空気を吸い込んだ。辺りに漂うのは、やはりロキの血の匂いだけだ。この血は、すべてロキの血で、書き込んだのはロキだ。

 あのときは暗がりで壁の様子までは見えなかった。だが彼女の翼は、あの怪我の治療のときに泥の巨人を作り出そうとしていた。唐突に灯台周りに泥の巨人が出現したのはそのためだ。

 意図的なものとは思えない。血文字は歪で、ルーン文字の体裁を為していないものさえある。それゆえに、あんな単調な動きしかできないミストカーフが産まれたのだろう。ロキにとってしてみれば、おそらくは防衛反射のようなものだったのだろう。怪我をしたことで、無意識に己を守ろうとしていたのだ。そして泥の巨人が作り出され――ヘイムダルが現れた。


 白きヘイムダルの目的は浄化だ、とオーディンから聞いている。この宇宙を汚染するものを根絶しようとしているのだと。世界を汚染する魔法は、〈白き〉にとって忌むべきものだ。ならば……、ならばヘイムダルはロキを殺そうとするのだろうか。イドゥンの友を。

 もうひとつ不安に思うことがあった。それはロキが魔法を使っていたことそのものだった。ミストカーフの生成という単純な魔術にしろ、魔法は魔法であり、この宇宙の物理法則にはそぐわない概念なのだ。それゆえ、魔法を使えるのは例外的な存在であるヘイムダルを除けばオーディンら3人しか存在しないはずなのだ。なのに、ロキは魔法を使った。泥の巨人を作り出した。

 いったい、なぜ。


 こうしてあのときのことを考えてみると、トールを負傷させたヨルムンガンドの出現やイドゥンが攫われたこと、それに泥の巨人ミストカーフの出現に至るまで、すべての出来事はロキを通してひとつに繋がっているのではないかという気がした。

「イドゥン」

 男の声がしたので振り返ると、灯台入口にチュールが立っていた。

「おい、こんなところで何をやっている。いちおうこの付近の巨人族は制圧したとはいえ、攫われたばかりなんだぞ。勝手にひとりでうろつくな」

「チュール、こんなところに何しにきたの?」

「それはこっちの台詞だ。おまえがひとりで外に出たと聞いて追いかけてきたんだ」

「それは……、ありがとう。チュールは優しいね」

 チュールの返答はなかった。彼が血文字に気が付く前にイドゥンは灯台の外に出た。気持ちが沈みかけていただけ、陽光の暖かさと涼しげな風が心地良い。

 灯台の前にはチュールの馬が繋がれていて、イドゥンはそれに乗せられた。チュールも乗って、抱きかかえられるような形のままでスリュムヘイムへと戻る。こういった形で馬に乗せられるのはよくフレイにしてもらっていたが、なんとなく気恥ずかしい。フレイも優しいが、チュールも、優しいと思う。だから、嬉しくて、怖くて、何を言えばいいのかわからなくなる。

「チュール」

「なんだ」

「あのね。ロキのこと、もっと優しくしてあげて。この前のことも、ロキは操られただけで、何も悪くはないんだから――」

「その話は聞いたし、あの女の罪が問われないのは知っている。おれは――」チュールの言葉はしばらくの間、虚空を彷徨っていたが、「とりあえず、わかった」という形で落ち着いた。

 たぶん、チュールも言いたいことがいろいろとあるのだろう。それでも我慢してくれるから、やはりチュールは優しいなとイドゥンは思った。


 柔らかな風が吹いていて、イドゥンの三つ編みを揺らした。草原が躍ると小鳥たちが羽ばたいて逃げ出した。その様子を、狼が遠くからじっと見ていた。


   ***

   ***


 アースガルドの洞窟の中に〈魔狼フェンリル〉は繋がれていた。

 心臓に巻きつけられた銀色の紐は《銀糸グレイプニル》。それが彼の身体を食い荒らしている。

 彼の手足を繋いでいる鎖は《縛鎖ドローミ》。それが彼の意志を拘束している。

 ドロー身に繋がれた鉄球は《封錘レーディング》。それが彼の心を鎮めている。

 彼の口の中にあるのは〈軍神チュール〉の失った右手首。狼の間接。貫いているのは右手の所有者、〈軍神〉の剣。


 〈魔狼〉には聞こえている。遥か彼方の第二平面ミッドガルドでアース神族たちが一つ砦を落とした戦祝会の音が。何が起こっているかはわからないでも、楽しそうなことが起きているのはわかる。笑い声。嬌声。楽しそうな声。

 〈魔狼〉は苦しみもがき続けている。

 痛みに。

 悔しさに。

 悲しさに。

 怒りに。

 永遠に続くかのような責め苦。永遠に続くような責め苦が、続く。小さな洞窟の中。

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