第1.14話 黄金の林檎イドゥン、狼の母とともに巨人族の砦を脱出すること

 動くものがいなくなったことを確認してから、イドゥンはロキの傍に屈み込む。

「ロキ……、大丈夫? ロキ、ねぇ、返事して」

 ロキの格好は酷いものだった。もともとあまり表面積の広くない服は破られ、手は背中側で鎖のついた手錠によって拘束されていた。周囲に羽毛が何枚も落ちている。ロキの、羽。泣いたのか、ロキの虚ろな目は赤くなっていた。

 ロキが何かを呟く。

 まだ操られているのだろうか、と警戒しかけたが、敵意は感じられない。イドゥンは桃色の唇に耳を近づけた。

「ごめんね」

 ロキは言っていた。ごめんね、イドゥン、と。


 〈狼の母ロキ〉の懺悔だった。


「わたしは大丈夫だよ。ロキ、操られてたんでしょ? 仕方ないよ。それより、今から手錠外すからね」

 この辺りは鼻につく生臭い臭いと、それを助長するかのような甘い臭いが強く、イドゥンの今は活発な嗅覚には少し辛かった。早くこの牢から出たい。イドゥンは壁に鎖で繋がれている手錠を引き剥がそうと力を込めた。手錠そのものは外せなかったが、輪を楕円形に歪ませることに成功する。

「手、抜いてみて――うん、抜けたね。良かった………」

 手錠を投げ捨て、イドゥンは牢屋のベッドからシーツを剥がそうとした。だがそのシーツも生臭い臭いでべとべとになっている。隣の空いている牢から比較的清潔そうなシーツを剥ぎ取って、ようやくロキの白い肌を隠すことができるようになった。

「よぅし、これで、うん、オッケィだね。早く逃げよう」

 イドゥンはロキに手を差し出したが、〈狼の母〉は手を握ってはこなかった。俯くロキの身体は震えていた。


「ロキ、逃げよう。ね、アースガルドへ帰ろう?」イドゥンはできるだけ優しい声で語りかけた。

「どうして助けてくれたの?」

 言うなり、ロキは大粒の涙を流し始めた。

 イドゥンは彼女の落涙に少し戸惑ったが、可能な限りの笑みを見せてやった。「わたし、友達ってあんまりいなかったの。今まで。でも、今はロキがいるから……だからね、助けたかった」


 本当は、あんまり、などではなく友達などいなかった。

 毎日見舞いに来る家族。虚しさに心を痛める医者。日課で世話をするだけの看護師。かつてイドゥンの世界といえば、それだけだった。それだけで、ほかに外部との関わりはなかった――独眼の主神オーディンと出会うまでは。だがオーディンによって自由に動けるようになっても、外界との関わりは避けてきた。人目から逃げ隠れるように住んでいた。本当は、もっと、もっとやりたいことはあったのに――。


 だから、ロキが訪ねてきてくれたときは嬉しかった。

 チュールが護ってくれると言ったときは嬉しかった。


「わたしのせいで……」震える声でロキは言葉を紡いだ。「こんなことになったのに………」

「ロキは悪くない。ロキは、操られていただけでしょう? 大丈夫。アースガルドに帰ったら説明するよ。だから、ね? 帰ろうよ、ロキ。みんな心配している。フレイも、チュールも、トールも、みんな」

 まだ煮え切らないロキの手をイドゥンは無理矢理掴んだ。ロキの手は世界樹の根元のように熱く、汗のせいか少し湿っていた。手を引いて立たせる。引っ張っていく。最初は少し抵抗を示したロキも、ついには観念して歩き出した。イドゥンが走り出せば、ロキも翼を気にしながら駆けた。

 階段を登り、地階に出たところで巨人族の兵士と出くわしたが、イドゥンはロキの手を離さないまま、空いている手で掌底を相手の顎に放ち、足を脹脛側に入れて引っ掛けた。相手が重心を崩し仰向けに倒れたところに蹴りを叩き込む。動かなくなった兵士の身体を飛び越えて進む。

「イドゥン……強いんだね」

「ちょっとだけね」

 と謙遜しながらもイドゥンは己が誇らしい気分だった。友を守れるのだから。


 石造りの通路の前に巨人族の兵士が現れる。5人。3人よりは厳しいが、倒せない相手ではない――だが今度は奇襲ではないし、ロキもいる。彼女を守りながら逃げられるだろうか。脱出経路を確認する前に行動を起こしてしまったのは失敗だったかもしれない。いや、ロキの救出を優先させたのは間違いではないはずだ。そう言い聞かせながらロキの軽い身体を引っぱって踵を返す。戦うよりも逃げるのを優先させるべきだ。

 だが来た道にも巨人族の兵士たちが迫っていた。5人、いや6人7人と数が増え続けている。どうやらイドゥンとロキが逃げ出したことは既に砦中に伝わってしまったようだ。


「まさかヴァン神族の姫君がここまで強いとは思わなかった」

 という低い声は聞き覚えがあるものだった。槍を構える巨人族の背後から、ひときわ大きくひょろ長い身体が姿を現す。シアチ。

「まさか自分が逃げるだけではなく、ロキまで救い出すとは」

「感心ついでに逃がしてほしいんですが」

 軽口を叩きながら、イドゥンは周囲に視線を巡らせた。細い石造りの通路で、前後は完全に挟まれてしまっている。壁を破れば――いや、砦の分厚い石壁を破れるほどイドゥンは怪力ではない。速度を幾らかは破壊力に転換できるとはいえ、イドゥンの力は基本的にはそういった性質のものではないのだ。


「ロキは、巨人族も、アース神族も裏切った女だ」シアチがイドゥンの言葉を無視して言った。「それなのに、きみは助け出すのか?」

「あなたのせいでしょう」イドゥンは喉に溢れてきた言葉をそのまま口から発した。「あなたのせいだ」

 戦力比は2対30といったところだろうか。いや、ロキは暴行されて傷ついており、戦えない――もっとも、もともとロキは兵士ではないし、戦う技術はない。巨人族は増援を増やし続けるだろう。狭路で一度に相手にしなければならない人数が少ないのは幸いだが、動ける範囲が狭くなっているという問題もある。イドゥンの動体視力と身の軽さをもってしても長槍を避けるのは容易ではない。

 それでも――たぶん、イドゥン1人なら、30人程度なら相手にできる。ただし、ロキの安全を無視したうえで、相手を殺す覚悟で戦えば。


 だがイドゥンはロキにこれ以上傷ついてほしくなかったし、誰のことも殺したくはなかった。

 誰も殺さず、しかもロキを護り、30人も相手に戦えるだろうか?

 誰か助けに来て、とイドゥンは祈る。

 フレイ。

 ニヨルド。

 オーディン。

 チュール。


 腹に冷たいものが触れる。それはロキの手で、ここに来るまでの出来事があっただけに、ぎくりと身体が強張りかけた。

 しかしロキはイドゥンを拘束しようとしたわけではなかった。もう片方の手で腰から三日月状の物体を抜くと、石壁に突き立てる。ロキが突き立てた手斧は赤熱して輝き、石壁を容易に切り裂いた。手斧の熱で柔らかくなった石壁は、まるで水飴だ。

「逃がすな!」

 シアチが反応したが、その頃には既にロキが丸く石壁に切れ目を入れていた。彼女が為そうとしていることを理解する。ロキに抱きかかえられたままで、イドゥンは脚の力だけで円を蹴りつける。なんとか潜れそうな穴ができたことを確認する暇もなく、ロキが翼を後方に伸ばす。羽ばたくことなく浮かび上がるや、滑るように穴から砦の外へ飛び出した。真っ直ぐ、真っ直ぐに。


 イドゥンがいて二人分の体重があるせいか、それとも掴まったあとにされた暴行のせいか、速度は遅く、高度も低かったが、ロキは確かに飛んでいた。空は暗く、雷鳴が轟いていた。もうすぐ雨が降る。風が吹き、雷が落ちるだろう――いや、既に雨が降り始めていた。

「ロキ、あんな道具持ってたんだね。〈神々の宝物〉なの?」

 飛んでいる最中に邪魔かもしれない、と思いつつも、イドゥンは抱きかかえられたまま声をかけた。

「うん、でもひとには使えないものだから……」

 確かに、石壁をあんな簡単に切り裂くほどの熱を生じさせるのだから、人神相手に使うには威力がありすぎる武器だ。だからロキは使わなかったのだろう。いや、単に彼女にあの〈神々の宝物〉を武器として使うだけの技量がなかっただけか。そう思ったからこそ、巨人族の兵たちにしても彼女の装備を確認したりはしなかったのだろう。


 そんなことを思いながら首だけを動かして巨人族の砦、スリュムヘイムを振り返ったイドゥンは、すぐさま叫ばなくてはならなかった。

「ロキ、弓が――!」

 シアチら巨人族の兵士らは砦の屋上へと移動し、手に手に弓を矢を投げ槍を斧を構えていた。さすがに投げ槍が届く距離ではないが、十分に弓矢の射程範囲内だ。

 射手の数を確認する余裕もないままに、巨人族の手から矢が開放される。刹那、イドゥンはロキの手から逃れて半回転し、空いた手前に伸ばした。矢を掴む。一瞬だったが、張り詰められた弓弦から放たれる矢の軌道が見え、刺さる前に掴むことができた。己に向かって飛んでくるぶんだけならば。


 がくりと高度が下がる。視線を上げると、ロキは目を瞑っていた。額からは汗が流れ、流線を描いて小さな顎を伝っている。彼女の身体を伝うのは汗だけではなかった。鮮血がイドゥンを抱く腕から滴っている。怪我は腕からではない。背中だ。羽の付け根に矢が突き刺さっている。


「ロキ――!」

 高度がどんどんと落ちていく。ロキの顔が苦痛で歪んでいる。矢が突き刺さっている側の羽が徐々に小さくなっており、今やほとんど片羽だけで飛んでいた。ロキは懸命にもう片方の翼を引き延ばそうとしていたが、小さな身体は巣から落ちた雛のように地面へゆっくりと落下していく。

 イドゥンはロキの腕を振り払い、空中で身体を翻して己が二本の脚で地に降り立った。豪雨になりつつあった雨のせいで土は柔らかく、ロキを抱えて着地したイドゥンは転びそうになった。


「ロキ、ロキ!」

 ロキを抱いたまま彼女の名を呼ぶが、呻くだけでまともな返答がない。血も止まらない。このまま雨に打たれ続けるのは不味そうだ。かといってアース神族の砦まではまだ距離がある。幸い、周囲を見回すと不時着した地点のすぐ近くに小さな灯台のようなものが見えた。ここは第一平面アースガルドではなく、第二平面ミッドガルドだ。海があるはずで、だから見た目通りに灯台なのだろう。

 イドゥンはロキを背負う。軽い身体だ。冷え切っており、首元にかかるロキの吐息だけが熱い――いや、心臓も熱い。まだ生きている。生きている。だから、大丈夫だ。希望を背負いながらも、ぬかるみの中、雨の中、雷の中、足取りは重かった。


      ***

      ***


 イドゥンに背負われたまま、ロキは声を出そうとする。


 イドゥンの言うように、ロキは操られていたわけじゃない。

 自分の意志で、ロキは彼女を誘拐したのだ。

 自分の目的のために、彼女をかどわかしたのだ、と。

 謝りたい。

 謝りたい。

 死にたくない。

 オーディン、どうして――。


 背中が熱かった。

 ロキは意識を失った。

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