6-2.

 「……は?」

春日原の言っている意味がわからず、俺は聞き返した。

「……いや、何言って……」

「おそらく女性です。……心当たりは、ないですよね」

ふふ、と悪戯っぽく訊ねる姿は、冗談を言っているようにしか見えなかった。

「……本当に?」

「はい。……確認しますか? おすすめはしませんが」

「……うん」

そして俺は、見なければ良かったと、今までの人生で一番の後悔をすることになる。


*****


 春日原は警察が到着するまでの間に少し調べておきたいと言って、俺を外廊下まで介助し座らせた後、室内に戻っていった。

 程なくして、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきて、アパートの前に停まった。権藤刑事の不機嫌そうな声と、部屋から出てきた春日原が誘導する声。複数の足音に交ざって、ヒールのコツコツという音がコンクリートの床に響く。部屋の外の廊下に蹲っている俺を見て、飯島刑事が小さくうわ、と悲鳴を上げた。

「歌ヶ江さん、大丈夫ですか?」

「……あんまり」

声を掛けられ、何とか少しだけ顔を上げた。

 暗がりではあったが、仰向けに倒れた腹に刺さった包丁、床に広がった血を、はっきり見てしまった。臭いが、鼻の奥に何かこびり付いているように消えない。髪で顔が隠れていたのが唯一の救いか。

 春日原はよくもあの状況を冷静に調べられると思う。豪胆とか、そんなレベルではない。人間の他殺死体を目の前にして平然としていられるどころか、興味を持って近寄れる人間が、どれだけいるのだろう。

「えっと……。それじゃ、失礼します」

「……はい」

それだけ言うのが精一杯だった。速やかにロープが貼られ、開け放たれたドアの奥から声が聞こえる。

「春日原くんが、第一発見者なんですよね?」

「はい。昨日から歌ヶ江さんの旅行に付いて行ってて、帰ってきたところだったんです。荷物を置いて靴を脱ごうとしたら、見かけない靴があって……。変だなと思って奥を覗いたら、人が倒れていました」

玄関は元々、靴を出しっぱなしにしていてあまり片付いていない。加えて、家に戻ってきた開放感で、足元など気にもしなかった。

「戸締まりは?」

権藤刑事が訊ねる。

「窓は出る時に僕が確認しましたし、歌ヶ江さんが鍵を閉めたのも見ました。帰ってきた時も、確かに鍵を開けていましたよ。開いてたら、気付くと思います」

確かにそうだ。もしも鍵が掛かっていなかったら二度鍵を回す羽目になるのだから、さすがに俺でもわかる。

「ちなみに、女性の死亡推定時刻はもうわかりましたか?」

「詳しくはこれからですが……。死後半日程度は経過しているのではないかとのことですよ」

今は確か、十一時くらいだ。ということは、昨晩の遅い時間。多少前後するとして、夜の九時以降といったところだろうか。

「で? 昨日の昼から、あんたたちはずっと一緒に行動してたと?」

「涼城ツーリング主催の船旅です。歌ヶ江さんのお友達の青山さんのお誘いで」

俺の部屋で死体が出た以上、もちろん真っ先に疑われるのは俺だ。次いで、普段から出入りのある春日原。しかし俺たちはその時、確実に海の上にいた。戻ってくることは不可能だ。

「アリバイ成立、ですか……」

「青山さんの婚約者で涼城グループの涼城彩菜さん、花巻グループの花巻花枝さんとも、夜まで一緒でした」

大企業の社長令嬢が二人も証人になるとなれば、ひとまず俺たちの立場は盤石だ。

「何かトリックを使ってたり、今挙げた皆さんが共犯でない限りは、ですけどね」

アハハといつもの緩い笑い声。

「もう、またそんなこと言って」

ふん、と権藤刑事が不満そうに鼻を鳴らす。

「上着のポケットに入ってたスマホのケースに、運転免許証が入ってた。名前は川崎沙耶花。知り合いか」

「いえ……、知らない方、だと思います」

「歌ヶ江さんは――、……少しは良くなりました?」

近づいてきた声に顔を上げると、飯島刑事が心配そうな顔で見ていた。

「……多少は……」

見下ろされることがほとんどないので、新鮮な目線だ。

「この方、お知り合いですか」

差し出された運転免許証に写っているのは、茶髪をセミロングにした、少し吊り目の若い女性。

「……知りません……」

もちろん、心当たりは全くない。――このアパートのセキュリティはガバガバだが、空き巣は想定しても、鍵の掛かった自分の部屋の中で見知らぬ女性が死んでいるなどという事態を、誰が予想できただろうか。

「待ってください、この女性、どこかで見たような……」

「本当ですか、春日原くん」

「確か、もっと寒い季節で、歌ヶ江さんが側にいる時……、あ、もしかして」

こめかみを人差し指でグリグリと揉みながら考えていた春日原が、突然顔を上げた。

「歌ヶ江さん、初詣に行った時、神社の境内で女性とぶつかりましたよね?」

「え……。ああ、うん……」

そういえば、そんなこともあった。

「あの時の女性に似てる気がします」

「春日原くん、そんな一瞬出会った人の顔まで覚えてるんですか? しかもお正月って、三ヶ月近く前のことじゃないですか」

当人はぶつかったことすら忘れていたのに、相変わらず恐ろしい記憶力だ。

「仮にぶつかった相手だったとして、それだけの関係の人間が、なんで部屋で死んでるんだ」

後からやってきた権藤刑事も、より一層不機嫌そうに眉間の皺を深める。

「さあ……?」

さすがの春日原にもそこまではわからないようで、後頭部を掻いた。

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