第151話 真剣で試合うというルール


 だが、はっと顔をあげた積雲の表情は驚愕に歪んでいる。電瞬一撃で斬りつけた彼の刃は真冬を仕留め損ね、かわりに真冬の木刀は積雲の拳を打ち据えていた。


「まだまだっ!」

 かっと顔を朱に染めた積雲が、太刀を返して斬りかかる。真冬は頬に笑みを浮かべたまま、魔法のように入れ違い、ふたたび積雲の両拳を打った。


「効いておらぬ!」

 怪鳥のような雄叫びをあげ、白刃を閃かせる積雲。しかし、真冬は舞うように、愉しむようにその剣刃下から逃れ、あるいは誘い、斬りつけられれば入れ違い、だまし絵のように勝敗をひっくり返して見せた。


 なにがどうなっているのか、光希には皆目見当もつかない。

 ただ、真冬がその場を動かず、構えを変えるだけで、積雲の刃が外れ、真冬の木刀が積雲の両拳をはたりと打ち据えるのだ。

 そんな光景が十分以上もつづき、とうとう針ヶ谷積雲が音を上げる。

「参った。拙者の負けである」


 どよめくような歓声が、中庭につめかけた群衆の中からあがった。いきなりの大番狂わせに、場が盛り上がる。大広間の縁から見下ろしている幕閣たちも、口々に驚きの声をあげている。


「最初から興味深い試合ですね、劍禅」

 お澪の方が扇子で口元を隠しながら笑う。


「積雲は、いいように動かされていましたな。当たると見せて、当たらぬものを、それと気づかず斬らされていた。愚かなことです」

 劍禅が不機嫌そうに口を尖らせる。


「ですが、血も流れなければ、人も死なない」

 お澪の方は不機嫌そうに喉を鳴らした。

「何ともつまらぬ試合でした。せっかくの御前試合なのですからもっと派手なものを次の試合からは期待しますよ。血がしぶき、手足が切り飛び、首がぽろりと落ちるような、そんな愉しい斬り合いをね」


 可愛らしい声で残酷なことをいうお澪の方を、光希は非難するような目で睨んだ。その視線に気づいたお澪の方は、あたかも光希の反応を待っていたかのように振り返る。


「期待してくださいな、水戸殿。つぎの試合は、美しい女性拳士が、素手で巨漢の力士と戦うのです。その力士は何とも残虐な男のようですからね、相手の女性拳士の手足をもぎ、首を引っこ抜いてバラバラにして殺すくらいのことはしてくれると思いますよ」


 光希が声を発するよりも早いタイミングで、審判の声が暮れはじめた夕空へと響いた。


「東方、元力士、一橋ひとつばし肉兵衛!」


「西方、遊び人、死織!」


 おおっというどよめきが響いた。死織にではない。能舞台へつづく渡り廊下を軋ませて歩んでくる巨漢に対してだ。

 その男は異様に大きかった。身の丈は二メートルを超す。横幅もすごく、縦横の比率は樽に近い。

 まるで神社の御神木のように怪異なまでの巨漢は、筋肉と脂肪にふくらんだ身体を藍染めの浴衣に包みながら、みっしみっしと廊下の板を軋ませて舞台に上がってくる。

 小さな髷を結っているが、髪の毛自体は少なめ。丸くふくらんだ顔の真ん中で小さな目が頬の肉に埋もれている。しかも、その手には、斧と見紛うばかりの巨大な鉈が握られていた。


「なんだ、あれは?」光希の背後で佐々木が呻く。「本当に、人間か?」


 ──いや、人間ではないな。


 光希は、肉兵衛の落ちくぼんだ目を見つめる。


 ──瞳孔が開いている。人間ではない。少なくとも、生きている人間ではない。



 そして、そのあとから、巨漢の陰に隠れるように歩んでくる死織。

 あの日、光希を襲った河童を拳法で倒した遊び人の女性。

 あのときは花魁の格好をしていたが、いま現在は膝丈の真っ赤なチャイナドレスを身につけていた。頭は三つ編みにしたおさげを輪っかにして留めている。試合という事で、和装を解除し、洋装で挑むことが許可されたのかも知れない。だが、それ以上に……。


「あの手枷は、外さないのですか?」

 光希は目を見開いて、お澪の方に詰問した。


 死織の両腕は、穴の開いた板で挟み込む形の手枷が嵌められている。あれでは死織の得意な拳法は使うことができない。しかも、相手の巨漢は手に大ぶりな鉈を持っている。いかに真剣試合とはいえ、これではハンディキャップが大きすぎる。


「あの者は、徳川の秘宝、三種の神器を盗み出した罪人ですのでね」お澪の方は小首を傾げて可愛らしく唇をひらく。「手枷を外すことは、火付盗賊改方の中山殿が許可できぬ、と」

 悪戯っぽく、鬼刑部へ流し目を送る。


「お待ちください。相手は巨漢な上に、刃物を持っています。あれでは試合にならない。まるで嬲り殺しの見世物ではないですか!」

 光希は声を荒げたが、試合開始を高らかに告げる審判の声が響いてしまう。


「待たれよ!」

 光希が叫ぶが、ときすでに遅し。一橋肉兵衛の巨体は、細い死織の身体に襲い掛かっていた。


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