田中様は夜空の花火を見上げる
第135話 これが仕事
大黒屋は
武家屋敷とちがって、盗賊に狙われる危険のある商人たちは防犯意識が高い。だから屋敷の門は固く閉ざされ、外からあけることは困難だ。しかし、内通者の協力により、その夜の裏木戸の閂は外されていた。開いている木戸を開いて、周囲を軽く見回すと、田中主水は飄々とした足取りで大黒屋の屋敷に忍び込む。
広大な敷地、南面したおおきな庭、そして主人たちが住む邸宅。
ものには総て表と裏がある。この屋敷の見事な造りを表とするなら、粗末な使用人の長屋や雇った用心棒たちが起居する
今宵、花火見物で母屋には大黒屋とそれに近しい者たちが集まって盛大な酒宴が催されているようだが、こちら、裏庭にちかい粗末な茅舎でも、何人かの不逞な浪人どもが酒を酌み交わしていた。
「おい、酒がないぞ」広縁に胡坐をかいて酒器を傾けていた浪人が別の浪人に告げる。言われた浪人は「では、女中を呼んで持ってこさせるか」と答えたのだが、ちょうどその拍子で茅舎の扉を開き、顔をのぞかせた田中主水は気さくに声を掛けた。
「どうも。昼間はお騒がせいたした。町方の同心です。上司のことづてにより、お詫びの酒をお持ちいたしました。いや、遠慮は無用。これはお奉行からの謝罪の気持ちですから」
そういって、戸口にたった主水は、手にした徳利を掲げて見せる。
「おお、町方。これはちょうどいい。気が利くではないか」
浪人が機嫌よく相好を崩す。ぽんと膝を打って立ち上がり、差し入れられた徳利を受け取りに行く。ありがたく頂戴とばかりに手を伸ばした浪人の動きが、その体勢でぴたりと止まる。ぱたぱたっと音を立てて土間に血の雫がこぼれた。
ぐりっと急所を抉ってから引き抜いた脇差の刃が月明りにぎらりと光る。
浪人は声も立てずに、その場に倒れた。
「貴様っ」
反射的に、畳に置かれた刀に駆け寄ろうとするもう一人の浪人の動きを凌駕して、黒い羽織が颶風のように走る。刀に手を伸ばした体勢で、その浪人は絶命していた。
「ふん、いい腕だな」
奥から声がした。
壁に寄りかかり、胡坐をかいて酒杯を傾けていた男が、つまらなそうにつぶやいた。
浪人者は全部で三人。いま二人斬ったから残りは一人。
すでに茅舎にいるのは、この男と八丁堀同心の主水のみだ。
土足で室内に駆け込んだ主水は、悪びれた風もなく、最後の浪人にたずねる。
「おめえが、ちまたで噂の辻斬りかい?」
「だとしたら?」
浪人は、壁に立てかけてあった刀を取ると立ち上がった。
黒の羽二重に黒の刀。帯から銀色の光を放つ髑髏の印籠がぶら下がっている。
「他人の座敷に土足で踏み込むとは、無礼な木っ端役人だ」
言いつつのそりと歩み寄り、大刀を腰に差す。柄に手をかけ、親指で鯉口を切る。
行燈の灯から陰になった位置に立つ辻斬りの姿が、闇の中で
体中が黒い毛におおわれ、頭の上にとがった耳が立ち上がる。かっと開かれた両眼は、南瓜のように大きく炯々と赤い光を放っている。その姿はすでに人ではなかった。異形のケダモノである。
「へっ、無礼も何も、こちとら上様のまえでも着流し御免の八丁堀同心だぜ。妖怪風情に尽くす礼は、持ち合わせちゃいねえや」
小刀の刃を懐紙でぬぐって鞘に納めた主水は、大刀の柄に手をのせて、座敷の奥へと踏み出す。
「やめておけ、人間。人の動きで、われら獣の身ごなしに追従するなど無理な相談よ」
「あいにくと、これが仕事なんでね」
表通りをいくのと変わらぬ歩調で畳の上を歩む主水。像のように立ち尽くす妖怪。
二人は目も合わせず、入れ違う。その瞬間。
ひらりと二筋の閃光が交差し、抜き合った両者の刃がぴたりと止まる。
それを合図に、どぉんという雷にも似た爆音が空を走り、天高く打ち上げられた花火の青い光が、座敷に立つ二人の姿を蒼く縁取った。
「バカな」
黒ずくめの浪人猫山又右衛門、いや妖怪猫又がうめく。
「獣が人の真似して、光り物なんざ振り回すんじゃねえや」主水は、びゅっと音をたてて大刀に血ぶりをくれる。「こちとら、年季がちがうんだ」
主水が白刃を返して、するりと納刀すると、ぱちんという鍔鳴りの音が響いた。
それを合図に、ばったりと倒れる妖怪猫又。
『田中主水さんがLV9になりました』
同心の視界のすみにメッセージが流れる。
「ちっ、またLVがあがっちまったぜ」
羽織の襟をなおし、花火がつぎつぎと打ちあがる夜空を見上げる。
「俺の仕事は終わったぜ。あとはよろしくやんな、ヒチコックさんよぉ」
田中主水は、羽織の袖を翻らせて踵を返した。
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