第54話 湯煙のなかの陽炎


 白い湯気に視界を奪われ、その裸体ははっきりとは見えなかった。

 死織は、そしらぬ振りして浴槽に足を入れ、そこからするりと胸までつかる。ちゃぽんと音をたて、熱い湯がじんわりと彼女の身を包む。乳房が浮力を得てぐっと持ち上がった。

「ふーっ」

 それとなく声を出し、相手の様子を窺う。


 相手もこちら気づいたようだ。

 茶髪の頭が振り返り、視線を投げてよこす。


 さて、ここからどう、お近づきになるか。そんなことを考えていると、相手が立ち上がり、湯を波立たせてこちらに歩み寄って来た。


 立ち上がると、ちょうど腰までの湯。豊かな太腿で波を蹴立てながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる若い女。濃い目の陰毛が波立つ湯に揺れている。


 細い腰。ありえないくらい大きな乳房。つんとたちあがった桃色の乳首。ぞっとするほど色っぽい裸身だった。

 テンプレやデフォルトではありえない裸体だった。リアルでこんなにスタイルのいい女がいるものなのか? しかし、キャラ・クリエイトでここまで見事に作るのは至難の技ではないか?


 茫然と見上げる死織。

 相手は、強烈な色香を放つ肢体に反して、幼さの残る童顔の美少女だった。

 愛らしい顔貌。眉は濃く、目は大きく、口元はきりりと引き締まっている。可愛さの中にも凛とした美しさと強さが漂っている。


 長い茶髪を背中に垂らし、腰まであるその毛先が湯に濡れるのも一向に気にした風もない。濡れた前髪の下の大きな赤い瞳が、嬉しそうに死織のことを見下ろしていた。


「お隣、よろしいかしら?」

 舌ったらずな口調で、甘ったるく囁いた女は、死織の返答をまたず、彼女の隣に身を沈めてくる。細い肩先が一瞬、死織の肩に触れた。

 死織は、すぐ隣にいるその女の横顔をじっと見つめた。


 ──誰だろう? どこかで会った気がする……。


 もし自分の知っている女であったとしたら、もったいないことをしたものだ。いませっかくその女性の裸体を観賞できているというのに、それが誰だかわからないのだから。

 死織はそんなことを考えつつ、湯面に揺れる彼女の身体に目を落とす。


 女は真正面を向いたまま、愛らしい声で、「ここの夜景は綺麗ですよね」とつぶやいた。

 自分自身につぶやいたのか、はたまた死織に同意を求めているのか。


 ふふっと彼女が鼻で笑う。唇が割れて、愛らしい八重歯がのぞいた。

「あたしのことが分からないのね」


「あ、やっぱ知り合いだったか」

 死織は湯の中で肩をすくめる。

「すまない。記憶をロスっちまってて。昔のプレイ・ログが俺の頭の中にないんだよ」


「ふふふ、あたしだよ、死織」

 女は振り返る。死織の胸がなぜだが、きゅうんと痛んだ。

「あんたの昔の女だ。あんたにとって、とっても大事な女なんだよ。忘れちゃったのかい?」


 死織はだまって見つめ返すしか術がない。

 彼女のことをまったく思い出せないのだから。


「やはり、思い出せないか」女は、落胆に肩を落とし、もう一言付け加えた。それは女の声ではなく、低い、錆のある男の声だった。「拙者でござる。陽炎カゲロウでござるよ」

「なにっ!」

 ──こいつが、カゲロウ!!


 カゲロウが女! 女だったのかっ!

 死織はばっと湯を跳ね飛ばして拳を突きだす。

 が、水中から放たれた拳打は、速度を殺されており、カゲロウは難なく身を躱して入れ違いに掌打を打ち込んできた。


 ごふっ!

 肺がつまり、思わず吐血する死織。カゲロウの掌打からは、強烈な『とおし』、別名『陰勁いんけい』が流れ込んできていた。飛び散った赤い血の雫が、湯面にぱたぱたと落ちて溶ける。


 やられた……。死織の意識が遠のいた。

 カゲロウは、あの頭巾の下に女の美貌と肢体を隠し、声を変えて男にみせかけていたのである。まさか、女だったとは……。

 油断した。してやられた。


 薄れゆく意識の中で、死織は後悔した。

 きちんとカゲロウについての情報を得ておくべきだった。自分は記憶ロストしているのだから。

 カゲロウが女だとは、まったく想像もしていなかった。

 これは……、自分のミスであった。


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