第3話【届いた希望】

 脳が理解を拒否した。

 現実が受け入れられなかった。

 目の前で愛刀がホロホロと崩れていった瞬間、ユフィーリアは純粋にどうすればいいのか分からなくなった。


「あは、あはははははははは!! 無様、無様ですわねえ!! 野蛮な猿如きが、形勢逆転できるとでもお思いかしらぁ!?」


黒輝夜姫クロカグヤヒメ】の高笑いが鼓膜を震わせるが、ユフィーリアの心の底まで届いていない。

 腐敗術によって綺麗な薄青の刀身がボロボロの状態になり、刃の部分はまともに残っていない。これでは攻撃することすらままならない。

 思考停止して立ち尽くすユフィーリアに、【黒輝夜姫】は黒い糸で繋がる右腕を動かす。ほっそりとした指先を彼女へ向けて、


「さあ、次はその全身ですわ。お覚悟なさいませ」


【黒輝夜姫】の指先から、腐敗術が放たれる。

 黒い光線となって飛来するそれに、ユフィーリアはパッと顔を上げて視認する。


(――宿主ッ!!)


 自分の中で声が聞こえた。

 それが、ユフィーリアを動かす。

 手に持っていた愛刀の残骸を飛んでくる光線めがけて投げつけ、飛び退って回避する。黒い光線に触れた愛刀の残骸は最後まで仕事をし、その身を呈して黒い光線を受け止めて、主人であるユフィーリアを守り朽ちていった。

 悲しがっている暇などない。

 思考を切り替えろ。

 ユフィーリアは自身にそう言い聞かせて、虚空に右手を伸ばす。


「【銀月鬼ギンゲツキ】!! 寄越せ!!」


 雪の結晶が暗黒の空より降ってきて、伸ばされたユフィーリアの手に集まる。

 次の瞬間、彼女の手には白鞘に納められた太刀が握られていた。【銀月鬼】より授かった神器である。

 ユフィーリアの愛刀より軽く、握った感覚すらない。あまり神器を使う場面などなかったので、この最終局面で上手く使えるか問題だ。


(いや、使え。なんでもいいから!!)


 手段は問うな。

 生き残って、目の前の女王を討つことだけを考えろ。

 ユフィーリアは白鞘の太刀を腰に添え、驚いたように赤い瞳を丸くする【黒輝夜姫】を見据える。まさか、彼女もまだ刀を持っているとは思わなかったのだろう。


「おり空、絶刀ぜっとう――」

「させませんわ」


 黒い光線が顔面めがけて飛んできて、ユフィーリアの切り札の使用を中断させる。

 極小の舌打ちをしたユフィーリアは、飛んできた黒い光線を膝を折って回避した。頭上を黒い光線が飛んでいき、床を朽ち果てさせる。


「ちょこまかと往生際が悪いですわ」

「お? どうしたお前、丁寧な態度はもう終わりか?」


 忌々しげに吐き捨てる【黒輝夜姫】にユフィーリアが茶化す。


「お前の本来の性格、そんなアバズレなの?」

「――喧しいですわッ!!」


 怒りを煽ったことで見極めやすくなった黒い光線を回避し、ユフィーリアは余裕綽々といった態度のフリをする。


「どうした、当たってねえぞ!! さっきまでの命中率はどうしたァ!?」

「偉そうなことを仰っておりますが――」


【黒輝夜姫】の指先が、ツイと下へ向けられる。

 ユフィーリアの視線が、つられるようにして足元に投げられる。

 その異変は、確かに感じ取っていた。


「時間切れでございますわ」


 ビシ、ピシッと。

 ユフィーリアが立つ足元に、亀裂が走る。

 幾度となく腐敗術を受けた結果ではない。これは明らかに、白い塔自体が崩壊しようとしているのだ。

【黒輝夜姫】を睨みつけたユフィーリアは、


「お前……ッ!!」

「塔を崩壊させたのは、わたくしの仕業ではありませんわ。一つ下の階層にいた【素戔嗚スサノオ】が、色々と暴れた結果ではありませんの?」


【黒輝夜姫】はあっけらかんと「自分の責任ではない」と言い放つ。

 白い塔が崩れればどうなる?

 この下で戦っているだろうスカイやグローリア、そして相棒のショウは? 決着はついたのか?

 それらを確認する前に、ユフィーリアは【黒輝夜姫】の前に到達してしまった。もし彼らが、白い塔の崩壊に巻き込まれて、高高度から落下する羽目になってしまったらどうする?

 確認する術を、ユフィーリアは持っていない。


「ン、なろォ!!」

「きゃあああああああああああッ!!」


【黒輝夜姫】の絹を引き裂くような悲鳴。

 右腕と胴体を繋ぐ黒い糸を断ち切れば、ぶしゃああああ!! と黒い血液が噴き出す。切り離された右腕は操作不可能となり、宇宙空間を漂う。

 キッと赤い双眸で睨みつけてきた【黒輝夜姫】は、


「わたくしに傷をつけるとは、烏滸がましい!! 塵となって消えろ!!」

「天魔の女王陛下は唾を吐き捨てんのか!! 随分と素敵な教育を受けたんだなァおい!!」


 口を大きく開いて、黒くなった唾を吐き捨てる【黒輝夜姫】。

 唾というより、腐敗術の一種である。触れれば、あの大太刀と同じように朽ち果ててしまう。炎も、水も、爆発さえも受けて無事だった外套と大太刀が犠牲になったのだ、どんなものでも腐敗させる力を有するのだろう。

 ユフィーリアは全力で【黒輝夜姫】の怒りを煽るような台詞を選びつつ、吐き捨てられた黒い唾を回避する。亀裂の走る足場にびちゃ!! と叩きつけられた唾は、強酸よろしく足場を朽ち果てさせていく。


「そんな狙いが当たる訳ねえだろ!!」

「足場も悪い中、崩壊寸前で立っているあなたがなにを仰いますか!! ほら、わたくしの首はここですよ。狙ったらどうです!?」

「お、そんなに首を落とされてえのか!! 殊勝な心がけだな!?」


 ならば、お望み通りにやってやろう。

 女王の首を落とせば、この戦争も終わるのだ。あとは白い塔の崩壊前に駆け下りれば、高高度からの落下は免れるだろう。――もう白い塔がなくなってしまったら、その時はすでに詰みだが。

 とはいえ、今まで散々グローリアの無茶に付き合ってきたのだ。どうとでもなるだろう。生き残る術など捻り出せばいい。


(ちょっと息を止めればいけるか――?)


 半透明な球形の壁で覆われているとはいえ、その先は空気のない宇宙空間だ。半分だけ怪物になった天魔憑きが耐えられるとは思うが、さすがに空気のない世界に飛び出すとなれば無理がある。息が吸えなければ、ユフィーリアも死んでしまう。

 深呼吸をして、肺に目一杯酸素を取り込んでから、ユフィーリアは【黒輝夜姫】を真っ直ぐに見据える。狙うは、胴体と首を繋ぐあの黒い糸だ。


(おり空――絶刀空閃ぜっとうくうせん!!)


 時間の流れが遅くなる。

 崩壊の音も、女王の甲高い笑い声も、全ての動きや音を置き去りにしてユフィーリアは神速の居合を放つ。

 一閃。

 距離を飛び越えた斬撃は、確実に黒い糸を断ち切った。

 これでいい。

 わざわざ危険な空間に身を投げなくても、糸さえ断ち切ることができれば――。


「ッと、やべえ」


 置き去りにした時間の流れが追いつき、ユフィーリアの体に倦怠感が襲いかかってくる。二度に及ぶ『お了り空・絶刀空閃』は、さすがに堪える。

 急いで白い塔を降りよう。すでに【黒輝夜姫】を倒したと油断したユフィーリアは、背後で動く彼女に気づかなかった。


「あらぁ? 背中を見せるとは嬉しいですわあ。なんと無防備で、なんと愚かなんでしょう」

「――――ッ!!」


 振り向いたその時、右腕に黒いなにかが突き刺さる。

 腐敗術だった。胴体から切り離された生首だけの状態となってもなお、かの怪物の首魁は笑顔を浮かべていた。「油断したな」と嘲笑っていた。

 どうやら、腐敗術が放たれたのは【黒輝夜姫】の赤い瞳のようだった。その証拠として、輝く赤い瞳から黒い涙のようなものが垂れている。

 ああ、全く。本当に油断したものだ。最後の最後で。


「ぎ、あ、ッあああああああああああああ!!」


 痛みがあった。

 焼けつくような痛みが襲いかかる。手から滑り落ちた白鞘の太刀が、足元にカシャンと音を立てて落ちる。

 二の腕から下が朽ち果てて消失し、痛みだけが残る。我慢できずにとうとう膝から崩れ落ちたユフィーリアは、それでも首だけ残った【黒輝夜姫】を断ち切ろうと、痛みを飲み込んで白鞘の太刀へ手を伸ばす。


「あら、させるとお思いで?」


【黒輝夜姫】の口から黒い唾が吐き出され、ビチャ!! と汚い音を立てて白鞘の太刀に降りかかる。腐敗術の及ぶそれに、白鞘の太刀は一瞬で朽ち果ててしまった。


「――――――――」


 手段はない。

 もうなくなった。

 切断術は居合によって発動するもので、刀がなければ意味がない。


「では、そろそろ」


 時間ですわね。

【黒輝夜姫】の言葉が、やたら遠く聞こえる。

 ガクン、と視界が揺らぐ。ついに崩壊が最上階にまで及び、今まさに崩れようとしていた。半透明な球形の壁にもヒビが入り、ついにユフィーリアは虚空へと放り出されてしまう。

 破片が暗黒の空に飛び散る。さながら星の如く。その向こうで嘲る【黒輝夜姫】に手を伸ばし、ユフィーリアは呪詛を呟く。


 ちくしょう。


 あの時、油断なんかしなければ。

 あの時、きちんと死亡したことを確かめておけば。

 後悔だけが残る。だが、腕をなくしたこの状況で、もう彼女に挑むことはできない。失意のまま落ちて、消えていくだけだ。


「――――ア」


 誰かの声が聞こえる。


「――――リアッ」


 自分の中ではない、誰かの声が。


「――――フィ、リア!」


 ずっと待っていた、彼の声が。


「――――ユフィーリアッ!!」


 とん、と背中に温かな誰かの手が触れる。

 視界の端で揺れる艶やかな黒い髪、そして鈴のついた赤い髪紐。暗黒の空にそれらはよく映え、自分を見つめる色鮮やかな赤眼が最後の希望を持たせる。


「ショウ坊、お前」

「ああ、すまない。遅くなった」


 ショウ・アズマ。

 ユフィーリアにとっての希望が、今ここに戻ってきたのだ。


 ☆


 走れ、走れ、走れ。

 手足がもげても、転んでも、落ちなければいい。

 白い塔の崩壊が、すぐそこまで迫っている。壁も足場も悪い中、ひたすら階段を上り続ける。

 その先に待つ、相棒の元へ急ぐ。


「――ユフィーリア」


 ようやく階段の終わりが見えてきた。


「――ユフィーリアッ」


 息を切らせて階段を上ると、その先に彼女はいた。


「――ユフィーリア!」


 得物どころか、彼女の右腕そのものがなくなっている。

 銀髪碧眼の美しき相棒が、暗黒の空から降ってくる。悔しそうに、その先に佇む生首へ手を伸ばして。


「――ユフィーリアッ!!」


 ようやくショウの声が、彼女に届いた。

 背中に手を添えて、落ちる相棒を受け止める。青い瞳を見開いてショウへ振り返る彼女は、


「ショウ坊、お前」

「ああ、すまない。遅くなった」


 やっと、追いついた。

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