第7話【彼女に敗北は許されない】

 記憶の中にあるエリス・エリナ・デ・フォーゼとの最後は、氷の棺に閉じ込められていく彼女の姿だった。

 だが、

 というより、彼女が氷の棺に閉じこもるような状況を作り出したのは誰だ?


【負けた、負けましたね。ああ、私は敗北を許さない。確かにそう言ったはず】


 純銀に染まる視界の向こうに、誰かがいる。

 それは人のようなものでありながら、人ではない。その証拠として、彼女には足というものが存在していない。白いもやのようになっていて、さらに虚空に浮いている。

 荒れ狂う吹雪の中に平然と立っているのは、真っ青な肌をした美しい女だった。

 氷のように青い肌と純銀の髪、意地の悪そうなつり目は紺碧。紫色の口紅が引かれた唇は不健康そうで、白いドレスのようなもので華奢な体躯を包んでいる。

 そして彼女の頭には、氷の王冠が飾られていた。――それは、敗北を許さない絶対的な女王の象徴であるかのように。


【エリス、私の可愛い宿主よ。私は言いました、絶対に負けることを許さないと。私と契約をした以上は、敗北を味わうことを許さないと】

「あ、あ……」


 エリスは震えている。

 契約を解除されてしまえば、天魔憑てんまつきであるエリスはすぐに消えてしまうはずだ。それなのに、いまだ実体を保っていられるのは契約した天魔である凍えるほど美しい彼女が出てきてしまったからだ。

 時折、そんな現象があると聞いたことがある。ユフィーリアは夢の中で【銀月鬼ギンゲツキ】と会話をし、ショウは神宮『斗宿ヒキツボシ』にて能力を奪われた際は【火神ヒジン】と夢の中で対談したと言っていた。天魔憑きの中には自分が契約を交わした天魔と会話する機会があるようだが、グローリアはそういった機会には恵まれていない。

 だが、こうして表の世界に出てくることは初めてではないだろうか。グローリアは真っ向から純銀の女王を睨みつけ、毅然きぜんと言い放つ。


「君がエリスを苦しめていた原因?」

【苦しめる? この女は私と望んで契約を果たしました。遥か昔の話だけれど】


 純銀の女王は紺碧の瞳を眇めて、


【私は敗北が嫌いだ。だから敗北した時は、負け試合ごとなかったことにする。かつてもそうしてきた】

「かつて……?」

【なんだ、覚えていないのですか。私は覚えている、初めて負けた味をよく覚えている。貴様が私を――


 純銀の女王は、ほっそりとした指先でグローリアを示す。


 凍りついた『学校』の中、いつものように行われていた戦術遊戯。

 大人に成長した生徒が魔女と呼ばれたエリスに挑み、そしてことごとく負けていく中で、グローリア・イーストエンドという青年だけがエリスに勝利したのだ。

 誰もがグローリアの勝利を称え、グローリアもまた生まれて初めて勝利を味わうことができた。たかだか遊戯、たかだか授業の一環だったのだ。

 それなのに。

 視界が純銀に染まる。誰も彼もが凍りつき、唯一生き残ったグローリアが見たものは、エリスに詰め寄る純銀の髪を持つ女王だった。


 エリスを閉じ込める原因を作ってしまったのはグローリアであり、しかし目の前の純銀の女王が寛容であればエリスが氷の棺に閉じ込められることもなかった。

 彼女はグローリアを殺さない為に、記憶が風化するまで自らを棺の中に閉じ込めた。自分が契約した、負けを許さない天魔による暴走を食い止める為に。


「ふざけてる……それはあまりにも、ふざけすぎてる!!」


 グローリアは叫んだ。

 凍てつくほど寒いことも忘れて、彼は真っ向から純銀の女王に歯向かったのだ。


「負け試合をなかったことにしても、君が負けたという事実だけは残る。そんなずるいことをして、君は恥ずかしくないのか!!」

【ほう。私を「雪魔女ユキマジョ」と知っていて、なおも反抗してきますか。その姿勢だけは認めてあげましょう】


 自らを【雪魔女】と名乗った純銀の女王は、戦う力を持っていないグローリアを嘲笑う。

 グローリアは戦う方法を持っていない。彼にあるのは、他人を生かす為の戦略だけだ。補助系統の術式では、とても目の前の【雪魔女】に敵う訳がない。

 当然ながら、殴りかかったところで無意味だ。グローリアは体を鍛えていないので、殴りかかったところで程度は知れている。できることと言えば――。


「――僕は負けない、負ける訳にはいかない」


 懐中時計が埋め込まれた死神の鎌を高く掲げ、最高総司令官として世界を救うことを決意した青年は宣言した。


「僕は、この崩壊した世界を!! !!」

「――おう、一丁前に主張するじゃねえか。さっきまで最高総司令官の椅子は譲ろうかと思う、なーんてほざいてた脳内お花畑のお坊ちゃんがよ」


 その時、【雪魔女】のほっそりとした腕が切断された。

 ぼろりと体から切り離された真っ青な腕はすぐに氷の塊に変貌し、鮮血の代わりに白い煙が噴出する。【雪魔女】の美貌は崩れることなく、切り離された自分の腕と鮮やかな切断面を交互に見ている。

 荒れ狂う吹雪を掻き分けて、彼女たちはやってきた。

 黒い外套を冷たい風になびかせて、銀髪に雪を積もらせて、しかしその青い瞳から闘志は消えていない。人形めいた顔立ちに浮かぶは、野獣のような獰猛な笑み。

 ぐったりとした状態の黒髪の少年をおぶった銀髪碧眼の美女は、薄青の大太刀を構えて不敵に笑った。


「これまた美人が相手で大変嬉しいが、こちとら天魔最強の【銀月鬼】だ。三度目の負けを味わう覚悟はできてんだろうな、このアバズレ!!」


 ☆


 勝つ算段はない。

 ただ、ユフィーリアを突き動かすのは天魔最強の四文字を背負っているという自信だけだ。

 切断術が通用するなら殺すことはできるだろうが、殺してしまえばグローリアの助けたがっているエリスという婆さんも一緒に死ぬことになってしまう。それでは本末転倒だ。

 ならどうするべきか。啖呵たんかを切った手前、なにかをやらなければならないと思っていたのだが、あいにくショウは【雪鬼ユキオニ】との戦いで紅蓮葬送歌グレンソウソウカを使用してしまい、すでに体力の限界が訪れている。とりあえずショウには戦力外通告を伝えると共に、戦う力を有していないひ弱なグローリアに任せることにした。


【銀髪碧眼……懐かしいものですね。「銀月鬼」が、まさか人間の味方をするなんて】

「あいにくだが、俺は【銀月鬼】本人じゃねえ。ただの契約者だ」


 くすくすと純銀の女王――確か【雪魔女】という名前の天魔は、ユフィーリアを高みから見下ろして嘲笑う。その優雅な仕草がユフィーリアを苛立たせるが、なんか知らないけど胸の内側がやたらとムカムカしてきた。おそらく【銀月鬼】もムカついているのだろう。

 いっそこの澄ました顔を、切り札である『絶刀空閃ぜっとうくうせん』を使って切り刻んでやるべきか。ユフィーリアは薄青の刃を黒鞘に納めると、背中がなにやら温かくなった。


「――――?」


 大技である紅蓮葬送歌のせいで体力を使い果たしてしまった今のショウは、紅蓮星グレンボシ程度の火球ぐらいしか出せない状況だ。まともに戦うには、携帯食料レーションを大量に胃袋へ詰め込まなければならない。

 それなのに、背中が温かく感じるこの現象は一体?

 ふと、ユフィーリアはあるものを外套の内側に放り込んだことを思い出した。天井が破られた氷の立方体の中で、ショウが発見したあの赤い氷だ。

 試しに外套の内側から赤い氷を取り出してみると、その氷は赤々と輝いていた。純銀の世界に、真っ赤な色が差し込む。


【ふう、ようやく出番ですね。見つけましたわ、このアバズレ。わたくしの契約を無理やり断ち切って、主人を独占するとはいい度胸でございます】


 赤い氷の内側から、棘のある女の声が響く。

 対して【雪魔女】は、その氷の彫像めいた美貌を盛大に歪ませた。


【なッ、何故……私が凍らせたのに!! 何故、貴様がここにいるのです!?】

【あら嫌だ、炎が氷如きに勝てると思わないでくださいな。――


 表面は冷え冷えとしているはずなのに、内側は焼けるほどの熱を持っている。

 明らかにその赤い氷――【焔魔女ホムラマジョ】の声の調子が変わった。完全に怒っている。命の危機を感じ取ったユフィーリアは、自分が巻き込まれるより先に氷の塊を【雪魔女】めがけて投げつけた。

 すると、赤い氷が内側から割れた。【雪魔女】が急いで赤い氷をもう一度凍らせようとしたが、すでに時は遅かった。


【ようやくだ、ようやく出ることができました。――許しませんよ「雪魔女」このクソ野郎】


 氷の中から現れたのは、燃え盛る髪を持つ淑女だった。

 炎のドレスで華奢な体を包み込み、橙色の縦ロールは蜃気楼の如く揺らめいている。真紅の瞳に、引き結ばれた唇は健康的な赤い口紅を差している。肌の色は逆に純白でシミ一つなく、頭にはつば広の帽子を被っている。

 純銀の女王を【雪魔女】と称するならば、目の前に凛とした姿勢で立つ【焔魔女】は紅蓮の淑女といった具合か。二人の美しい、しかし相反する特性を持つ魔女に挟まれたユフィーリアは、巻き込まれないようにと退散した。


【やってくれましたね、このアバズレ。勝利に固執するあまり、宿主を苦しめる愚かな女】

【勝利に固執してなにが悪い? 私が勝てば宿主も死ぬことはない、それでいいではないか】

【負けを認めなければ、成長するものも成長しない。それが分かっていない愚か者は、炎に焼かれて死んでしまいなさい】


 荒れ狂う吹雪が、途端に弱まっていく。

 そして代わりに、淑女を中心にして肌が焼けるような炎が暴れ出す。一面の銀世界に、赤と橙色の爆発が起きる。

 雪が溶けて水となり、落ちる雪は雨となる。【雪魔女】の表情が恐怖によって引き攣って、敵わないと見るや宿主であるエリスの元へ帰ろうとする。


「させ、るかァ!!」


 ユフィーリアは炎の中を走り出した。

 炎が触れたところが熱を持ち、目を開けていることもつらい。それでも足を止めれば消し炭にされるのはユフィーリア自身であり、炎に飛び込んでもやらなければならないことがある。

 あのクソアバズレ、一度でもいいから叩き斬る。

 大太刀の鯉口こいくちを切ったユフィーリアは、気絶する可能性があることを無視して切り札に手を伸ばす。


「おり空――」


 時を置き去りにする。

 炎の動きが、雨粒が、他人の声が、全ての事象が急激に遅くなる。

 知覚を数百倍にまで引き上げる奇跡――そしてユフィーリアは、抜刀する。


「――絶刀空閃」


 青い軌道は一度だけ、ちょうど【雪魔女】の胴体を切断する。

 いつもなら何度も切断術を叩き込んでやるべきだが、それをやればユフィーリアは意識を失う可能性がある。こんなところでぶっ倒れている訳にはいかないのだ。

 足を止めれば、体を動かすことも億劫なぐらいの倦怠感がユフィーリアを支配する。大太刀を取り落として膝をつき、大きく息を吐いた。意識を保つこともやっとの状態であり、ユフィーリアは逃げなければならないと思いながらも動くことができずにいた。


【私は。私は敗北を許さない……私は】

「僕は君の勝利を許さない。エリスを苦しめた君の所業を、僕の同級生を殺してしまった君の罪を、僕は絶対に許さない」


 ユフィーリアが見たものは、幻想的な紫色の瞳を吊り上げて怒りを露わにするグローリアの姿だった。

 ここまでやってくるまでに食わせた携帯食料のおかげか、ショウは自力で座れる程度までは動けるらしい。グローリアの後ろでぽかんとした様子の彼が見えた。

 グローリアは懐中時計が埋め込まれた死神の鎌をくるくると回し、先端を【雪魔女】へと突きつける。胴体が切断されたことで若干小さくなった純銀の女王は、断頭台に立たされた時のように泣きそうな顔をしていた。


「――――永遠の中に眠れ」


 グローリアの静かな声と共に、今までずっと止まることなく時を刻み続けていた懐中時計の時針がピタリと止まる。

 彼の使う『時間静止クロノグラフ』――ではない。これはもっと、酷いものだ。

 ユフィーリアたち現場で動く天魔憑きはあずかり知らないことだが、唯一、グローリア・イーストエンドには他人を殺す為の戦術がある。

 それは誰も死なないが、永遠に続く時の棺に閉じ込められる術式。エリス・エリナ・デ・フォーゼが自らを氷の棺に閉じ込めたように、グローリアも他人を時の棺に閉じ込めることができる。


「適用『時間崩壊クロックロック』」


 ピタリ、と。

【雪魔女】の動きが止められる。瞬きすらせず、呼吸すらしない。ただそこに、石像のように固まって浮いているだけだ。

 絶望の表情で動かなくなってしまった忌まわしき【雪魔女】へ嘆息を送った【焔魔女】は、静々と燃え盛るドレスを引きずって座り込むエリスの元まで歩み寄る。彼女は穏やかに微笑んで見せると、そっとエリスの皺が刻まれた頬を撫でた。


【ああ、これで元通りです。不本意ですが、あなたの中に「雪魔女」と共に戻ります。「雪魔女」はあんなクソッタレなことを言いますが、わたくしはあなたの敗北を許容します】

「わたしには、わたしにはもう天魔憑きになる資格などありません……」


 鮮やかな緑色の瞳からポロポロと涙を流し、服を泥で汚した老婆は首を横に振る。

 彼女の記憶は全て元通りになった。元通りになったということは、つまり彼女が自分の生徒を殺してしまったことも思い出したのだ。【雪魔女】の勝利に対する執念によって暴走し、その果てにグローリア以外の生徒を全て凍りつかせてしまった。

 紅蓮の淑女は優しく微笑んで、


【それを決めるのは、あなたではありません。――どうぞ、彼の言葉にも耳を傾けてあげてくださいな】


 老婆の前に立ったのは、グローリアだった。

 彼は今、アルカディア奪還軍最高総司令官としてここにいる。エリスの教え子としてではなく、共に戦う仲間として手を差し伸べようとしている。


「ねえ、エリス。君は戦う資格がないと言うけれど、僕はそうと思わない。今は少しでも、強い戦力がほしいんだ。僕の理想を実現させる為に」


 いつか天魔から、この地上を取り戻す。

 その為に、青年は最高総司令官であり続けるのだ。

 知らない間に立派な成長を遂げたかつての教え子に、果たして老婆はなにを見たのだろうか。静かに差し伸べられた手を、皺くちゃな手が握り返す。


「強い意志……確かに受け取りました」


 エリスは、穏やかに微笑んだ。


「わたしに見せてください。誰も失わない、理想の戦術を」

「うん。だから僕に利用されてね、エリス」


 かつて魔女の元で戦術を学んだ青年は、今や誰も失わない戦術を実現させる指揮官となった。

 それは、魔女が望んでも手が届かなかった領域である。

 朗らかに笑う天才は、確かにその手に栄光を掴み取ったのだ。

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