第5話【過去を乗り越え、証明せよ】

 、という音を聞いたような気がした。

 ゆっくりと瞳を開くと、ショウを出迎えたのはどこまでも深く寂しい深淵だった。手足にまとわりつく闇が、重石のようにショウへのしかかってくる。ずっしりとした闇を掻き分けるように進むと、からんという聞き慣れた下駄の音が深淵の中に落ちた。


(――どこから)


 ショウの今の格好は、通常の時と同じ、黒いシャツに細身のズボンと革靴という闇の中に解ける服装だった。全身を拘束するような革製のベルトも装着されたままである。

 ならば、あの聞き慣れた下駄の音は一体?

 深淵に視線を巡らせるが、和装をしているような人物はおろか、生命の気配すら感じ取ることができない。どこまでも飲み込まれるような深淵が広がっている中で、ショウは一歩を踏み出すことができずにいた。

 その時だ。


 ――


 遠く、遠く、深淵の向こうから響く嗄れ声に、ショウは顔を上げる。

 真っ黒に塗り潰されていた視界の先に、見慣れた廊下が伸びていた。ほぼ反射的に足を踏み出すと、ショウの足元からからんという下駄の音が聞こえてきた。

 からん、ころん。軽快な足音を深淵の闇に響かせながら歩き続けると、いつのまにか視点が切り替わり、そこは薄暗い廊下といくつも並んだ座敷の光景となっていた。ショウの格好も先程と変化して、黒い着流しに赤い絣模様が入った黒い羽織を肩からかけ、廊下を漆黒の下駄で踏みしめている。


「先程の声は――」


 聞き慣れない声だった。

 父の声にしては厳しすぎるし、グローリアの声にしては低すぎる。かといって以前戦った【魔道獣マドウジュウ】の声かと問われればそうではなく、厳しさと拒絶を掛け合わせたかのような、近寄りがたい雰囲気がある。

 からん、ころん。足音を立てて、ショウは廊下を突き進む。

 薄暗い廊下の天井は果てがなく、頭上から深淵がショウを覗き込んでいる。かろうじて視界が確保できるのは、ぷかりと浮かぶ橙色だいだいいろの火の玉のおかげだ。燃料はなにを使っているのか不明だが、吊り下げる為の糸すらなく空中を漂っていられるとは不思議なことだ。


(――


 進むたびに、ショウは腹の底からせり上がってくる恐怖を必死に飲み込んだ。手足が徐々に震えてきて、立ち止まりそうになって、このまま背中を向けて走り去ってしまいたい衝動に駆られる。

 ここは、この空間は、ショウがかつて『調教』された場所だ。この先にある奥座敷にてショウは繋ぎ止められ、自我をとことんまで抑制された人形に成り果てた。

 泣き叫んでも、喚いても、助けに来てくれる人物はない。あるのは嘲笑と、侮蔑と、文句と、それからひやりと冷たい手で撫でられた記憶。むちで叩かれるなどの痛い記憶も断片的にあり、それよりも辛かったのは調教の為と言われて

 ――葬儀屋一族アンダーテイカーは、誰よりも他人を殺すことに長けていなければならない。だから、一思いに殺す術も、苦しんで殺す術も身につけなければならない。

 幼い頃からそう教えられて、ショウの自我はついに自分の奥底に封印された。


(――俺は、違う、人形ではない、あの時とは違う)


 本当に? と囁きがあった。

 廊下に沿うようにして広がる座敷に、少年が正座している。死装束とも呼べそうな真っ白い着物に、黒い髪はボサボサで長く、赤い瞳は虚ろな少年が、真っ直ぐにショウを見据えていた。

 血の気が通っているのかさえ疑わしい白い肌と、着物の裾から伸びる腕は力を入れれば折れてしまいそうだ。乾いた唇がモゴモゴと動き、諦念ていねんに満ちた声を紡ぐ。


『今も変わらないではないか。貴様は命令されたことを、命令されたまま実行する人形に過ぎない。あたかも命令されることが自分の意思であるかのように振る舞う操り人形。だから空っぽだと揶揄される』

「違う。俺は」

『違わない。だからユフィーリア・エイクトベルに見限られるのだ』


 鋭いところを突かれて、ショウは口を噤んだ。

 返す言葉もなかった。それは紛れもない事実であり、的確にショウの柔らかい部分を傷つける。

 正座のまま座敷に佇む少年は、能面のような無表情のまま静かに言う。


『諦めろ。聞けないと言うのであれば、命令という形を取ろうか。ここから立ち去れ。貴様にユフィーリア・エイクトベルの相棒の責務は重すぎる』

「何故そう決めつける」

『自分を見失っている時点で、すでに答えは明白だろう。唯々諾々と他人の命令に従うだけしか能がない操り人形如きに、天魔最強を謳う奴を守ることができると思うか?』


 できる、と言いかけたショウを遮るようにして、無表情を貫く少年は『不可能だ』と一蹴する。まだなにも言っていないのに、ショウ自身の答えを知っているかのような振る舞いに、怖気を感じずにはいられなかった。

 いや、そもそも目の前の少年と出会った時から怖気は感じていた。

 艶のない黒く長い髪、落ち窪んだ赤い瞳、病気を疑う白い肌、痩せた体――間違いなく、目の前の彼は実家にいた頃のショウだ。まだ【火神ヒジン】と契約するより前の、奥座敷に閉じ込められて『調教』を施されていた頃だ。


『命令がなければ、貴様は行動すらできない。そんな傀儡くぐつを、気高き魂を好む【火神】が許すと思うか』

「…………確かにそうだ。【火神】が好むような気高い魂を、俺は持ち合わせていない」


 他人の命令に従うしかできない操り人形。

 自我を抑制するように調教を施されて、気高さなどとは無縁。

 それでも、ショウは退かなかった。拒絶されようと、批判されようと、諦めて帰るという選択だけはしなかった。

 彼をこの場に繋ぎ止めているのは、かつて父に言われた言葉だ。

 ――君は、君の人生を歩みなさい。父は、ショウに自分で選んで決めろと言ってくれたのだ。


「俺は、俺の意思でこの場にいる。【火神】と対話しなければならないと決意したのも、誰に言われた命令ではなく自分の意思だ」


 毅然きぜんとショウは言い放った。

 座敷に正座する少年は、落ち窪んだ赤い瞳を見開いた。だが、表情の変化は一瞬だけであり、すぐさま元の能面のような無表情に戻ってしまう。

 ゆっくりと少年の痩せ細った腕が持ち上がり、節くれだった指先がショウの背中を示す。つられるようにして振り返った先には、いつのまにか別の道が伸びていた。

 どこまでも続く深淵に、通り道であることを示すように石灯籠いしどうろうが等間隔で設置されている。石灯籠の明かりが絶えず落とされているというのに、闇の色は拭い去ることができなかった。


「…………この向こうにいるのか?」


 座敷に正座している少年に問いかけたはずだが、彼は忽然と姿を消していた。もぬけの殻となった和室が広がっているだけで、何故か不気味な雰囲気が漂っている。

 ショウは、意を決して石灯籠が織り成す深淵の道へ足を踏み入れた。からん、ころんと下駄が軽やかに音を立てる。


「――アツヒコ、ヨシノ、マンジ、キリヤ」


 両脇に並んだ石灯籠には、それぞれ人の名前が刻み込まれていた。

 石灯籠に封じ込められた炎は、ショウが名前を呼ぶたびに呼応するかの如く揺らめく。


「ヤツデ、セリ、コノエ、ゼンジロウ」


 それが使命だとでも言うように。

 それが正しいとでも言うように。

 ショウは淀みなく、石灯籠に刻み込まれた名前を呼んでいく。


「トウヤ、ナツキ、レンジ――」


 ちょうど八三個目の石灯籠に刻み込まれた名前を呼んで、ショウはピタリと歩みを止めた。

 八四個目の石灯籠には、明かりがついていなかった。ただ、しっかりと名前は刻まれている。

 

 それは紛れもなく、ショウの父親の名前だった。


「――これらの石灯籠は、アズマ家の歴代当主なのか」

『ふん、傀儡のくせに頭だけは回るようだな』


 耳朶に触れた嗄れ声に、ショウは振り返る。

 そこには一際巨大な石灯籠が鎮座していて、その上に喪服を想起させる黒い着物に赤い絣模様の入った羽織を肩からかけた青年が腰掛けていた。鮮烈な印象を与える赤い瞳でショウを睨みつけ、青年は脅しかけるように口を開く。

 引き結ばれた薄い唇から、紅蓮の炎が漏れ出す。息を吐き出すように炎を口から噴出させる彼は、その若々しい見た目には似つかわしくない嗄れ声で言う。


『話すことはない、と言ったはずだがな』

「過去の俺とのやり取りを聞いていたのであれば、俺がここまできた理由が自ずと分かるはずだが。――いや」


 ショウは首を振る。

 違う、違う。その認識は間違いだ。


「座敷で待ち構えていた過去の俺は、貴様か」

『――――ほう、よく気づいたな』

「瞳の色が赤かった。子供の頃の俺は、天魔と契約する以前は黒い瞳だった。父さんの赤い瞳が遺伝するはずがない」


 ショウが【火神】と契約した際、赤い瞳と舌に刻まれた炎の模様を引き継いだ。契約した天魔の特徴を受け継ぐという事象が、例外なく適用されたのだ。

 青年は感心するように赤い瞳を細め、しかしすぐさまそっぽを向いた。


『とはいえ、貴様と話すことなどない。さっさと立ち去れ』

「断る」

『生意気な。傀儡となった挙句、力の半分を奪われるなど醜態を晒した貴様に今更なにができる。これなら貴様の父親と契約をしていた方が』

「今の契約者は俺だ!!」


 批判に批判を重ねる青年に、ショウは怒鳴りつけた。

 青年の柳眉が寄せられて、生意気だとでも言いたげに端正な顔立ちが歪む。口の端から炎を漏らす彼を真っ向から睨み返したショウは、静かに言葉を吐き出した。


「――父さんに言われたことがある。『君は、君の為に生きなさい』と。今まで俺は、この単純な言葉の意味を考えあぐねていた」


 ただ父は、ショウに傀儡となってほしくなかったのだ。

 人としての幸福を求め、人としての生活を求め、人としての未来を自分の息子に願った。それを実行できずに、ショウは自我を抑制された状態で今日まで生きてきた。

 それらの枷を解き放ち、ショウは自分の足で歩もうとしている。

 遥か先を歩いている、あの銀髪碧眼の相棒の隣へ並び立つ為に。


「俺は、ユフィーリアの相棒でいたい。ユフィーリアの期待に応えられるようになりたい。願わくば、生きている限りは奴のすぐ隣で戦っていたい」


 もう遅いかもしれない。

 もう見限られているかもしれない。

 それでも、悪あがきぐらいは許されるだろう。


「【火神】よ。俺は、貴様が求めるような気高さを有していないと自覚している。だが、俺は父さんの言葉に従い、自分の為に生きることにする。自分の為に生きるには、貴様の助力は必要不可欠だ」


 青年は、一度も口を挟んでこなかった。

 あれだけ「話すことはない」とにべもなく一蹴していたのに、今はただ静かにショウの言葉へ耳を傾けていた。その先の言葉を待つように。


「だから【火神】――」


 ショウは青年へ向かって手を伸ばし、


「俺にもう一度、戦う力を貸してくれ!!」


 その決意に満ちた言葉に、青年は『ふはッ』と唐突に吹き出した。口から大量の炎を吐き出しながら、腰かけた石灯籠の上から転がり落ちない勢いで彼は笑い出す。

 その反応はなんだ、とショウは不満になった。せっかく決意を示したというのに、笑う要素がどこにあったというのか。

 ところが、相手は馬鹿にした意味で笑った訳ではなかったらしい。


『はははは、ふはははは!! 【銀月鬼ギンゲツキ】よ、まさかあの傀儡じみた小僧を改心させるとは思わなんだ!!』


 青年は石灯籠から飛び降りると、満足そうに笑いながらショウの頭をぐりぐりと乱暴に撫でた。その乱暴な手つきに覚えがあり、どこかユフィーリアのようにも感じた。

 容赦なく髪をぼさぼさにしてきた青年の手を払い除け、ショウは乱れた髪を手で軽く整える。


「返答らしいものを聞いていないのだが」

『ああ、そうだったな。――返答はもちろん、いいだろう。その気高い魂と意思に免じて、貴様に我の全てを授けてやろうではないか』


 そう言って、青年はショウの額に手のひらを翳した。

 暖かい感覚が全身に伝わっていくと同時に、青年の最初とは打って変わって穏やかな印象となった声が頭の中に響く。


『我の使いし神器を貴様に預けよう。歴代の当主は我が神器を上手く使いこなすことはできなかったが、貴様であれば問題なかろう。――さあ、その名を告げろ。我が神器の名は――』



綺風アヤカゼ



 目の前を炎が埋め尽くす。

 見慣れない天井を覆うかのように噴き出る紅蓮の炎を練って、伸ばして、操って、それからショウは現実の世界へ帰還を果たす。

 溢れ出す炎を手のひらの中に集めると、炎はたちどころにショウが常から使っている回転式拳銃へと変貌を遂げる。ただ、いつもの意匠とは少しだけ違っており、その色合いはまさしく燃えているようだと言っても過言ではないだろう。


「ありがとう、【火神】。また貴様と戦えることを、俺は誇りに思う」


 手のひらの中で存在を主張する回転式拳銃を一度だけ撫でると、閉ざされた襖が音もなく開いて金髪の狐巫女が顔を覗かせる。

 琥珀色の瞳が回転式拳銃を握りしめたショウを映すと、安堵の息を吐き出した。


「心配しましたでございます。半ば強制的に眠らせて【火神】と対話していただきましたが――ご無事な様子でなによりでございます」

「すまない、葛葉くずのは。感謝する」


 ショウの礼を受けた金髪の狐巫女――葛葉は「いいえ、いいえ」と首を横に振る。


「【火神】と対話をしたのは貴方様でございます。本当の力をお授けになられたのであれば、貴方様はなすべきことがございましょう?」

「ッ!!」


 そうだ、まだ戦争は終わっていない。

 戦場ではいまだ悪夢の繭が暴れ回っていて、奪還軍は苦戦しているはず。そしてその中には、ショウが隣に並びたいと願ったユフィーリア・エイクトベルがいる。

 一刻も早く戻らなければ、彼女の命が危ない。ショウは急いで立ち上がると、ちりんという細やかな音を足元で聞いた。

 視線を下にやると、足元に赤い髪紐が落ちていた。小さな鈴を括り付けられたそれは、まるで自分も連れて行けと言っているかのようだった。


「まあ、素晴らしい髪紐でございますね」

「そうだな」


 髪紐を拾い上げたショウは、結ばれていない状態の自分の髪の毛をいつものようにポニーテールで縛った。

 もちろん、彼の髪を飾るのは、鈴のついたあの赤い髪紐だ。


「どうやら、これは俺の首輪らしい」


 ちりん、と髪が揺れると同時に鳴った鈴が、ショウの帰還を歓迎しているかのようだった。

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