第二十一幕 闇夜に踊る者(Ⅳ) ~キーア・フリクセル

「ふっ! ふっ! はぁ! はぁっ!」


 夜の街を疾走する細い影。足音を立てにくい特殊な走り方をしているが、それでも隠しきれない呼気だけは音となって響く。もう何十分もこうして全力疾走を続けている。流石の彼女・・も息が乱れるのを抑えきれなかった。


「いたぞ! 賊だっ!」

「……っ!」


 駆け抜けた路地裏の先に大勢の衛兵達が、彼女が出てくるのを待ち構えていた。まるで彼女の逃走ルートを事前に把握しているかのような衛兵の包囲網。


 彼女は舌打ちしてルートを変えて別の路地に逃げ込む。先程からこの繰り返しだ。彼女は自分が文字通り袋小路に追い込まれつつある事を自覚していた。


 危惧はあった。


 あのマリウスという凄腕の太守に追跡された経験から、次の仕事・・はほとぼりが冷めるまでもう少し時間を空けて欲しいと依頼主・・・に懇願したが聞き入れられる事はなく、行かねば母を殺すと脅されただけだった。


 向こうにしてみれば彼女が失敗しても痛くも痒くもない。またいくらでも替わりを探して、同じ仕事をさせるだろう。命令に逆らったり、ディムロスに情報を漏らせばあっさりと母が殺される事は解っていた。彼女には拒否する権利はなかった。


 そうして再びディムロスに潜入した彼女は、ひたすらあのマリウスだけを警戒していた。彼にさえ注意していれば何とか仕事を遂行する事は可能なはずだ。そう思っていたのに……



「あそこだ! 逃がすな!」

「……! くっ……」


 やはり衛兵が先回りして道を塞いでいた。この入り組んだスラムの路地を全て封鎖できるような衛兵の数はいないはずだ。確実に彼女の逃走ルートが先読みされている。


 誰か恐ろしい知恵者の掌の上で踊らされているような感覚であった。この包囲網を的確に指揮している人物がいる。それを彼女は確信していた。


「……!」

 それから更に二度、同じように衛兵の先回りを逃れた彼女の前には、大きな建物の壁が聳えていた。左右にも高い塀が立ち並び、跳び越える事は出来そうにない。遂に袋小路に追い詰められてしまったのだ。


「…………」


 後方。つまり彼女がやってきた路地から複数の人間の気配。彼女はゆっくりと後ろを振り向く。


「……ようやくお目に掛かれたわね。あなたがキーア・フリクセルね?」


「……ッ!?」

 自分の名前を呼ばれた彼女は、驚愕に目を見開いて眼の前に現れた人物を凝視した。明らかに強面の筋者と思しき荒くれ者達を周囲に従えた妖艶な美女であった。



 彼女はその美女の事を知っていた。この街では有名人である。誰が呼び始めたか『ディムロス四才姫』の一人……女軍師ヴィオレッタ・アンチェロッティその人であった!



****



「想定通り……いい仕事をしてくれたわ。流石は元締ね、ドニゴール」


 袋小路に追い詰めた女盗賊――キーアを前にして、ヴィオレッタは傍らに控える侠客の元締めドニゴールに礼を言った。ドニゴールは肩をすくめた。


「いいって事だ。俺達としても、これ以上よそ者の盗賊にシマを荒らされたとあっちゃ沽券に関わるんでな。そういう意味じゃ、あんたからの話は渡りに船だった」


 ヴィオレッタは予めドニゴールに話を持ち掛け、敢えて警備の穴を作る事でキーアの逃走先を巧みにスラム街へ誘導し、後は土地勘のある彼等に彼女を追い詰めてもらう作戦を立てていた。


 マリウス達が旗揚げした経緯から、兵士や衛兵の中にも元侠客の荒くれ者が多数存在しており、そうした衛兵達と連携する事で見事にキーアを追い詰める事に成功した。ドニゴールの影響力もまだまだ捨てたものではないようだ。


 因みに流入してきた大量の移民難民の全てに仕事や衣食住を与える事は流石のエロイーズにも不可能であり、あぶれる者達はどうしても出てくる。そうした者達は行き場なくスラムに流れ着く者が殆どで、物乞いに身をやつしたり犯罪に走る者もいる。街の規模や人口の増加に伴ってスラムもまた『発展』を遂げていた。


 だが当然侠客や物乞い達にもそれぞれの縄張りやしきたり等があり、そうした『新参者』達との摩擦やトラブルは日常茶飯事だ。ドニゴールは元締めとしてそれらの『調停』などに大忙しのようで、本人曰く「充実した日々」を送っているらしい。




 ヴィオレッタは油断なく身構えるキーアに視線を戻す。


「さて、キーア。大人しく投降してくれれば――」


「くっ! こうなったら……!」


 キーアが低い姿勢になって素早くヴィオレッタに迫る。破れかぶれ……ではない。ヴィオレッタは先頭にいる。彼女をうまく人質に出来ればこの状況を脱する事が出来るかも知れないと考えたのだ。だが……


「ふっ!」

「……っ!?」


 キーアとヴィオレッタの間に、素早く影が割り込んだ。ドニゴール達ではない。


「彼女への狼藉は頂けないな」


「……! マ、マリウス伯……!?」


 キーアには彼がいつこの場に入ってきたのかさえ分からなかった。恐るべき早業と隠形であった。咄嗟の事に思わず硬直してしまう。その隙を逃すマリウスではない。


「ほっ!」

「……ぁ!」


 ガキィンンッ! と金属音が鳴り響き、キーアが気づいた時には持っていた剣に凄まじい衝撃が加わり、あっさりと手から弾き飛ばされていた。


「くっ……」


 手首を押さえて飛び退る。丸腰となったキーアだが諦める気は無さそうだ。マリウスの方を悲壮な目で睨み据えている。マリウスは溜息を吐いた。


「無駄だよ。君じゃどう足掻いても僕には勝てない。大人しく降伏してくれないかな?」


 それは残酷な現実。他ならないキーア自身がそれを誰よりも良く解っているだろう。だが彼女はかぶりを振る。


「それは……それだけは出来ない」


 絶望的な状況にありながら頑なに拒絶する。その理由も既に知っているヴィオレッタは、若干同情的な視線になる。


「……母親が心配?」


「ッ!?」

 キーアが息を呑む。名前を知られていた事といい、まるで全てを見透かされているような恐怖と驚愕を感じている事だろう。そしてそれは間違いではない。


「な、何を……」


「悪いけど調べさせてもらったわ。優秀な諜報員がいるのよ。……母親を人質に取ってあなたを脅しているのはエストリー太守のゲオルグね?」


「……!!」

 三度、驚愕。キーアの顔が青ざめ、身体が小刻みに震え始める。


「そ、そこまで……何もかも知られているのね。だ、だったら分かるでしょう!? 私は降伏する訳にも、捕まる訳にも行かないのよ!」


 悲痛な叫び。だがマリウスは冷静に切り返す。



「……僕達が君の母君を助けると言ったら?」



「……え?」

 キーアは一瞬何を言われたのか解らないという風にキョトンとした。その時だけは険しさが取れて年相応の様子となっていた。しかしすぐに表情は引き締められた。


「な、何言ってるの? そんな事出来るわけが……。ゲオルグは他国の太守なのよ!? それに母の監禁場所も不明だし……」


「それに関しては既に手を打ってあるわ。あなたの母親は必ず助ける。……で、それを踏まえた上で、降参するの? しないの?」


 ヴィオレッタに選択を迫られたキーアは、訳が分からないという風に眉根を寄せた。


「……何故、わざわざ? そちらにしてみれば私は散々迷惑を掛けた盗賊。強引に捕らえるなり殺すなりしてしまえばそれで済む話のはず。何故そんな手間・・を掛けるの……?」


 その疑問は尤もだ。キーアからすれば信用できるはずがない。というより、純粋な疑問という感じだ。



「……あなた達母娘の今の境遇は私の責任だからよ」



「あなたの……? 一体何の……」


 ヴィオレッタには辛い話もあるだろうから、マリウスがこれまでの経緯を掻い摘んで説明した。ミハエルという詐欺師を罠にはめて失脚させた事。ミハエルとゲオルグが繋がっており、ミハエルの失脚によってゲオルグが大損してこちらを恨んでいる事などだ。


「要は迷惑を掛けたのはこちらも同じって事。だから僕達に君を助けさせて欲しいんだ。それに個人的にも美しい女性が困っているのを見過ごせないしね」


「……最後のはともかく、概ねは彼が説明してくれた通りよ。これは私達の問題でもあるの。あなたが嫌だと言っても解決させてもらうわ」


 事情を聞いてようやくキーアも、マリウス達が本気で自分達を助けようとしてくれているのだと理解したようだ。まだ半信半疑ながらも、探るように問いかけてくる。


「……ゲオルグは用心深いわ。どうやって母の居場所を?」


「言ったでしょう? 優秀な諜報員がいるのよ。既に調べてもらっているわ。納得してくれたなら、これから早速まずはモルドバまで向かうわよ。ゲオルグの奴に察知されて警戒される前にね」


「わ、解ったわ……」


 矢継ぎ早に動く状況に目を白黒させながらも、母を助けこの地獄から抜け出せる可能性に、とりあえず頷くキーア。


 こうして彼女が自由を取り戻す為の、そしてマリウス達が撒いてしまった種を回収する為の『後始末』が始まった……

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