2019.1.1~2019.1.15

 手鏡に映る千重ちえの表情は硬い。はまぐりの紅入れを開き、小指で紅をすくい取る。下唇にあてがい、慎重に引いていく。端から端まで一文字、つと指が離れ、こらえていた息が漏れた。

「上手よ。その調子」

 母に声をかけられ、少女の頬はようやくゆるんだ。冬のただ中に春が半分、あざやかに現れた。

(2019.1.1)



 仏間を開けると、毬を従姉いとこの背中があった。彼女とは正月にしか会わない。年々まるみを帯びていく身体の線に、幼い私の心は落ち着かない。

「なに見てるの」

 従姉が肩越しに振り返った。うなじが、くうと捻れる。鞠が畳に転がった。

「いやらしい子」

 ぞくり。私の芯が疼いて鳴いた。

(2019.1.2)



 木立の間から射し込む朝日が、幾筋もの路を描いて川面へと降る。朝の息吹が草木を結び、鼻腔びくうをしんと湿らせる。


 そのままにただそのままに流れゆく

 自然の時はこの目に映えて


 歌詠み人を気取りながらフライパンの火加減に気を配る。山の一日の始まりを、パンケーキの香ばしい唄が彩る。

(2019.1.3)



 三が日も過ぎた光雲てるも神社の境内に、ささやかな宴が催されていた。狛犬たちが跳ね回り、太兵衛は大盃に浮かべた月を飲み干す。黒田の親子は陽気に笑いながら、眼下に延びる、星より目映い至宝に杯を傾ける。

 やがて空に白光が差し、宴は終いとなった。鶏が三度鳴いて、福岡の街に陽が昇る。

(2019.1.4)



 病室の窓を移ろう季節は生命に溢れ、私は目を逸らしながら日々を過ごしていた。

 ふと、視界の端に緑が煌めいた。

 立ち枯れていた桜に新芽が吹いている。

 しぶといな。

 枝に手を伸ばした。わずかに届かない。枝は嘲笑うように揺らぐ。

 あれに触れるまでは。

 胸の奥で、火がおこる音がした。

(2019.1.5)



 鹿は淵の畔で息絶えていた。木漏れ日がその魂を慰撫するかのように、皮膚の上で優しく揺れている。

 私は瞼を閉じ、その下に眠る骨を思う。やがて降り積もる年月が肉をほどき、白き身体を露わにするだろう。そして水脈にたゆたいながら一管の笛となり、いななきに似た哀しげな音色を奏でるのだ。

(2019.1.6)



「結婚おめでとう」

 言葉にした瞬間、胃の底から鉛のような塊がせり上がった。祝辞も早々に電話を切り、流しに駆け込んで激しく吐いた。

 元彼を後輩に紹介したのは私だ。未練などない。なのに、この不快感は何だ。

 ――分かってるくせに。

 影が真っ赤な口で囁いた。言うな――私は耳を塞いだ。

(2019.1.7)



 平和な日々に退屈した魔女は、気紛れに世界中の白い鳩を黒く塗り潰し大混乱を巻き起こした。

 やがて捕らえられた魔女は、罰として意識あるまま石にされた。元に戻された鳩たちは意趣返しと、こぞって魔女に糞を垂らした。白く塗り潰された魔女は、今日も声にならない悲鳴を上げ続けている。

(2019.1.8)



 富子とみこが男を見送りに玄関まで出て来た。さちは急いで洗濯物を取り込んだ。本妻と別れない男の所為で、富子はいつまでもめかけのままである。

「旦那はんとはこのくらいの距離が丁度ええんよ」

 どっちも大馬鹿だ。富子が奥に下がり、幸は騒々しく洗濯物を畳み出す。主のむせび泣きが漏れぬように。

(2019.1.9)



 丁寧に剃刀かみそりを当て、タオルできゅきゅっと磨き上げると、目にも眩しいつるつる頭の出来上がり。かつては己の血筋を呪いもしたが、それも若さ故のこと。

「よし来い!」

 待ってましたとばかりに、孫たちは頭をぺちぺちやり始める。薄毛よ、ありがとう。俺は今、最高に幸せなじいちゃんだ。

(2019.1.10)



 にわかに黒雲の一群が天を覆い、昼は闇に転じた。孫六まごろくは神経を針にし、くさむらに潜む討ち手の襲撃に身構える。草木のさざめきが耳に障る。

 やがてとびが鳴いて昼が戻ってくる。辺りには己だけと察し、孫六は柄にかけた右手を引き剥がした。どろり脂汗が額を伝う。 旅は、始まったばかりである。

(2019.1.11)



「辛いな」

 妻は無言で煮付けの皿を下げると、躊躇なくゴミ箱に捨てた。

 妻の味覚に異常が生じて、夫婦仲は急速に冷めていった。いつしか私は彼女を気遣う余裕すらも欠くようになっていた。

 妻は食卓に戻らず、無表情でテレビを見ている。ゴミ箱から鯛の頭が非難がましく私を睨んでいる。

(2019.1.12)



 ガキの頃、車の助手席は俺の指定席だった。ハンドルを握りながら自在にギアを切り換える親父の姿は眩しく、憧れだった。

 そ して俺も、ついにマイカーを手に入れた。中古の軽で精一杯だったけど……それでも助手席に座る親父は嬉しそうだ。俺はその表情を横目に、シフトレバーをDに入れる。

(2019.1.13)



 手紙が着くまで。

 電話が繋がるまで。

 メールが届くまで。

 既読が付くまで……

 どれだけ便利になろうとも、恋する二人にとっては長すぎる時間だ。互いの手が触れ合い、唇からこぼれる言葉でぬくもりを得られない限りは、満足することはない。これには神さまも、ほとほと参っているそうな。

(2019.1.14)



「殺すこたァなかっただろ」

 簑吉みのきち伊助いすけを責めた。押し込み先で、相棒は無抵抗な丁稚でっちを刺したのだ。

「ええ、仰るとおり」

 伊助は平然と言ってのけた。

「だッたら何で」

「可愛い顔してたンでね、つい」

 蛇のような目がふたつ、此方を向いた。簑吉は顔を伏せた。猪口ちょこを持つ手が震えた。

(2019.1.15)

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