第3話 揶揄後、助言

「サーティスさん、気が付いたみたいです」

「そうか……」


 パトリア王国は6ヵ年戦争の舞台になった大陸の僅か西に浮かぶ、大きなひし形の島国である。王国の東端にヌーマロウム領があり、さらに東にテルミネス海峡を挟んでデビトゥーム共和国が存在する。

 そのヌーマロウム領の都市プルグの中央には、人々がヌーマロウム城と呼ぶ建物が建っている。パトリア王国の法律では城という呼称は、王族の住処にのみ許されているので、厳密にはただの領主館に過ぎないのであるが、領主館の絢爛さは城と呼ぶのにそん色ないものであった。

 

 そんな城の主ミリオン・フォン・ヌーマロウム子爵は、メイドのネイアの報告を聞いて息を吐き、椅子の背もたれに身を預けた。

 パトリア王国最高の職人の一人である家具職人に作らせたその椅子の背もたれは、聖母が子を抱きしめるようにミリオンの頼りない背中を支えた。

 そして数秒、しばらくぐっと伸びをしてからミリオンは改めてネイアの方を見た。


「後遺症はないのか? 」

「あのメディス様ですよ? ただの気絶くらい一瞬です。なんだったら手先のひび割れや膝の青あざ、内臓疲労まで治療して気絶する前より元気になっちゃったそうです」

「そうか、良かった。良かったぁ……」


 ミリオンは心底安心したのか、再び椅子に体を預けた。安心のあまり排泄器官を除いた穴という穴、毛穴の一つまで少し緩んでいるような気さえした。涙腺も同様に緩み、ミリオンの瞳の上に涙の薄い膜を作った。

 そんなミリオンの様子を主人をからかうことを生きがいとするネイアが見逃すはずがない。

 


「あれ、もしかして坊ちゃん泣いてます? 」

「な、泣くわけないだろ! 何故、俺が女一人くらいで泣かなきゃならんのだ!! 俺はヌーマロウム子爵……ってうわっ!?」


 ミリオンが気が付くと椅子の真横にネイアが立っていた。物音一つ立てずに自分の横に立たれたので文句の一つでも言おうと思ったところで、背もたれに身を預けるミリオンの顔をネイアが斜め上から覆うように覗き込む。

 恋物語のような熱烈なキスでもするかのようにネイアはミリオンにゆっくりと顔を近づけた。

 この間ミリオンは全く動くことが出来ず、ただネイアが何をしようとしているのかじっと見つめるばかりであった。蛇に睨まれたカエルという言葉があるならば、美人にじっと見られた男という言葉があってもおかしくはない。男にとってのこれは本能なのだ。

 

 ネイアは瞬きすらしない主にさらに顔を近づけた。ネイアは普段、仕事に支障が出ないようにその銀色の髪を短くしている。ミリオンは内心、光を反射する樹氷のような美しい銀の髪を気に入っているのだが、そんな銀の毛先がミリオンの鼻をくすぐり、むずむずとさせるくらいに二人の顔の距離は近づいていく。

 髪が樹氷であるのならば、その瞳は夏の木々のような緑だ。緑は力強く、どこまでも深い。


 ミリオンは未だに動くことが出来ない。代わりにもし自分がここで目を閉じたらどうなるのだろうか、なんてことも思った。

 ミリオンにとって、それは興味の感情が大きい。まだミリオンの心は圧倒的にサーティスにある。でももし目を閉じたらどうなるのだろうか、と。


 もちろん、ネイアにはキスしようなんて考えはない。ただミリオンの目元を近くで確認しただけであった。


「うわっ、坊ちゃん、マジで泣いてるんですか? うわっ…………うわっ」


 目元に水滴を確認したネイアは自分の身体を抱きしめるようにして後退る。

 直接泣いていることを確認されてしまったミリオンは、虚勢を張ったところでもう無駄だと悟った。

 悟ったところで、ネイアのドン引きといった態度に少し憤りを覚えた。従者ならば、主人がフラれたなら慰めの言葉の一つでもかけるのが普通のはずだ。


「本気で好きだったんだぞ! フラれたら泣くぐらい当然だろ!! 俺にはサーティスしかいないってずっと思ってたんだ、なのになのに…… 」

「えぇ……、そんなに好きならなんであんな風に迫ったんですか? 」

「あんな風にとはなんだ!? 男なら自分が他のオスよりも優れているのをメスにアピールするのは当然だろ? 力の強さ、話の巧みさ、地位や権力……、俺はそれがたまたま金だったから、ああやって告白したんだ!! 金の力は最強のはずだ、俺の何が間違っていると言う」

「ここここここここ告白っ!? あの明らかな脅迫が告白っ!? 脅迫を告白なんて言っちゃう辺りが完全に間違ってます!! ……おぇっ、あっやば吐きそう。……おぇっ、すごっ、人って引きすぎると吐きそうになるんですね……、おぇっ……、人体って不思議!! 」

「……」


 1人で新発見にはしゃぐネイアの言葉には答えず、ミリオンは目の前の机に腕を枕にして突っ伏した。

 思い出されるのは死を覚悟してまで自分を拒絶したサーティスの姿。サーティスの姿は気高く、今思い出すと美しいとすら感じられた。同時にまた悲しみが襲ってきた。恋愛においてよく胸が痛いという表現が使われることをミリオンは知っていたが、どちらかというと痛みよりもしびれを感じる。

 電気を浴びたように胸のあたりがピリピリとして、それが全身を蝕んでいく。


 そんなミリオンの様子をネイアは少しだけ罰の悪そうに眺める。いつものミリオンなら自分の軽口になんだかんだ反応してくれる。今のミリオンはそんな余裕すらないようだ。ネイアは主人のこういう姿をあまり見たことはない。


「坊ちゃん、元気出してくださいよ。恋愛なんてうまくいかないことの方が圧倒的に多いんですから。まぁでも一応従者として一つだけ申し上げさせてもらいますと、坊ちゃんのあれだと上手くいくものもうまくいかなくなって当然ですよ」


 ネイアは言い慣れない慰めの言葉を使う。ミリオンは机に突っ伏したまま、それを聞いた。

 突っ伏したまま、ネイアの言葉の最後の部分にだけピクリと反応する。

 あれだと上手くいくものも上手くいかなくなるとはどういうことなのかと。

 それを聞こうとして顔を上げたミリオンだったが、顔は鼻水でぐちょぐちょだった。枕代わりにしてた服の袖ももちろんぐちゃぐちゃだ。

 

 これではネイアに質問するために口を開いた瞬間に鼻水が口に入り、しょっぱい嫌な思いをすると考えて、ちょうど机の上に山のようにある書類の束から一番上に載っていたものを適当に取って、ちーんと鼻をかんだ。

 鼻を噛むため紙ではないので、ごわごわとした感触が不快だった。


「あっそれ、孤児院救済の計画書 」


 自分の主人が落ち着くまで、とりあえず余計なことを言わないようにと黙って見守っていたネイアだが、ミリオンの鼻水でべっとりになった紙を見てつい指摘する。


「ちゃ、ちゃんとひ……ひっく……、計画書の……ひっく、控えは……ある」


 ミリオンはそう答えるとその鼻水でよれよれになった書類をくしゃくしゃと丸めて、机の下に備え付けてあるくず入れにポイと投げ入れた。

  

 パトリア王国はカプーショ教という一神教の宗教を国教としている。

 カプーショ教は一神教ながら自然崇拝に近い部分があり、精霊を神の子であると定めていたので、島国として大陸の影響をあまり受けずに各地に根付いていた独自の信仰を一纏めにするのに適していたのである。

 そしてパトリア王国の国王はカプーショ教の神の代理人という肩書を与えられている。


 そんなカプーショ教の5人しかいない大司教の1人が、金の無心のため、頭を下げにヌーマロウム領プルグの館へやって来たのは先々月のことであった。

 おでこのくっきりとした一本皺が特徴的な40代くらいの男性の大司教は、資金繰りの悪化が原因でこのままでは教会が運営する孤児院の経営が立ち行かなくなると言った。



 ミリオンは人としての欠点を多く抱えるが決して無能ではない。特に金と権力絡みの案件に関しては、他の貴族たちが持ちえないような独特な感性を持っている。金に関する感覚においては一流の商人並みだ。これは後天的なもので、少年期の慌しい数奇な運命がミリオンにこの感覚を培わせた。


 だからミリオンは教会の資金繰りの悪化という話を聞いて、事実であれば教会に恩が売れる好機と考えたと同時に、わざわざ他の誰でもないミリオンに金の無心をしに来た理由を考えた。ただ金を無心するだけならば、ミリオン以外でもいいのだ。そもそも教会は国や地方領主、大商人からの寄付で運営されていて、ミリオンも少なくない額を寄付している。


 つまりちょっと資金が足りなくなっただけならば、いつもしているような寄付のお願いの手紙をばらまけばいい。それなのにミリオンに直接、しかも大司教クラスが頭を下げてまで寄付のお願いをしに来たのならば、足りなくなった金額がちょっとやそっとで集められるような額ではなく、金を集めていることを多くの人間に知られたくない、何か後ろ暗い理由があると推測できる。



 ミリオンはその場ですぐに返答せず、大司教をしばらくプルグの街に滞在させ、その間に人を放った。結果、カプーショ教会内部で司教クラス数十人による巨額の横領があったことが分かった。額が額だけにそんな横領したらいつかは絶対にばれるだろうとミリオンは思ったが、金というのはそういう客観性を狂わせてしまうというのはミリオンが一番知っている。

 そしてミリオンは知りえた情報と巨額の寄付を材料に教会に対して大きな影響力を持とうとしていた。

 理由はどうであれ、最初からミリオンは孤児院を救う気であったのだった。

 


「だったらなんで第一声が、頷けば孤児院が潰れなくてすむになるんですか」

「何が悪かったのか……ひっく……、全くわからん……。あれしか方法を……知らん」

「……」


 ネイアは自分の想像以上にミリオンの闇は深そうだと気づき、返答に困る。脅迫こくはくの一件に関しては、心情的には謂れのない脅迫を受けたサーティスよりではあるが、自分の身近な人間がこういう風に苦しんでいる姿は誰もが見たくないはずである。



 ネイアがミリオンを坊ちゃんと呼ぶのにはいくつか理由があるが、その理由の一つはミリオンが精神的にまだ子供、つまり坊ちゃんであるからだ。

 だからといってネイアはミリオンにしっかりとした大人に成長して欲しい、その歪みを直して欲しいと考えているわけではない。ネイアはそんな歪みを含めてミリオンはミリオンだと敬愛している。

 何よりもネイアはそんなミリオンの歪みに救われた・・・・ことがあるし、ミリオンの容赦ない金遣いに恩恵を受けて感謝している人がいることも知っている。必要悪と言ったら大げさだが、世界とは色んな歪みを持った人の集合体で、歪み同士がうまく組み合わさってできているのだ。


 だが今、ミリオンはそんな自分の歪みに苦しんでいる。苦しんでいるならばネイアにとっても話は別だ。

 これはミリオンがほんの少しだけ変わるきっかけなのかもしれない。

 ネイアは主人に可能な限りのアドバイスをしてみようと決心する。



「女性をものにする方法は財力を見せつける以外にもありますよ。例えば……、相手のタイプを聞いてそのタイプに近づこうと努力するなんてロマンチックでいいかもしれません。そしてそのタイプに最大限近づいて『好きだ』と一言だけ言えば、いちころですよ」

「女性の好きな男性のタイプに金持ち以外があるのか? 」

「それは答えにくい質問ですけど……、本人に聞いてみるのはどうでしょうか? 」

「本人? 本人とは誰のことを言っているのだ? 」


 ミリオンが首を傾げる。


「医務室にサーティスさんいるはずですよ」

「ほんとか!? 」

 

 ミリオンは目を見開いた。もうすっかりミリオンは泣き止んでいたが、泣いていたと簡単に推測できるほど、目が腫れぼったくなっていて、目を見開いたところで瞼が少し重い。

 医務室に思い人がいることを知って、少しだけ力が沸いたミリオンであったが、瞼の重さを感じると同時に気持ちも重くなった。

 どんな顔をして会えばいいか分からなかった。ミリオンはまだサーティスのことが好きであるが、修復不可能なほど嫌われているのであれば、もうどうしようもないのだ。


「うだうだ色々と考えるのは止めて、とりあえずは謝ってみるのがいいと思いますよ。謝ってダメだったらしょうがないじゃないですか」


 そんな主人の懸念を予想したのか、ネイアが諭す。

 確かにその通りである、ミリオンはそう思い、立ち上がった。正直なところいまだに何が悪かったのか解決はしていないが、それを含めて謝ろうとミリオンは心に決めた。

 すたすたと執務室を出入り口の方に歩き、ミリオンは医務室へと行くべく、部屋を出ようと右手でドアノブに手を掛けた。

 手を掛けたところで一旦、謝罪と同じくらい大事なことをしてなかったと思い出し、ドアノブから手を離して、ポリポリと頬をかいた。


「ネイア、アドバイスしてくれてありがとう」

「どういたしまして、坊ちゃん」

「アドバイス料はいくら欲しい? 金ならいくらでも払うぞ、ん? いくら欲しいんだ? 」

「……坊ちゃん、そういうところですよ」

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