一夜漬けの味

一矢射的

姉よ、貴方は凄かった



 如月千夏ちなつは高校一年生。

 そして今は三月二日(木曜)の午後十一時。

 三学期末、学年期末テストの期間中である。


 彼女は今とてもとても苦しんでいた。なぜならば、テスト寸前の短期集中つめ込み記憶方法……つまりは一夜漬けの勉強が何時になっても終わらなかったからだ。


 大人はきっとこう言うだろう。

「普段から勉強しておけば、そうならないのに」と。

 なるほど、それは正論だ。しかし、千夏だって別に毎日を遊び暮らしていたわけではなかった。


 テニス部の練習が毎日のようにあって、家に帰る頃はもうクタクタ。休みの日には、好きな動画投稿者の更新具合をチェックしなければいけないし、友達との付き合いでショッピングにだって出かけないといけない。なんの興味もない古典動詞の活用なんて勉強している暇はなかった。

 明日の試験科目は古典、美術、社会。他は得意なのでどうという事もないが、古典の奴はすこぶる強敵だった。


 ―― 何が「ありおりはべり」よ。そんなモン世間に出た時なんの役に立つの? マニアと学者だけでしょ、そんなのに貴重な脳の容量を割いているのは!


 眠気や疲れはピークに達し、イライラは最高潮。

 普段の千夏であれば、こんなこと考えもしなかった。古典の勉強は嫌いだけど、それを教えてくれる中西先生は大好きだった。『今昔物語』や『源氏物語』のエピソードを引き合いに出して、判りやすく面白い授業をしてくれる。

 中西先生は別に悪くないのだ。やたら丸暗記を要求してくる動詞の活用法がいけないに決まっていた。

 かつて「ゆとり教育」が主流だった頃は円周率だって「およそ3」で計算していたそうなのに。なぜ、この動詞どもは「あり」で統一せずコロコロ姿を変えるのか。まるで理解できなかった。中華キャラみたいに語尾を「アル」で統一してしまえ。そう思ってすらいた。


 いくら参考書に蛍光ペンでラインを引いても、問題集の答え合わせをしても、寝惚けた頭には入ってこなかった。


 ―― 少しだけ、ほんの少しだけ休憩をしよう。これだけ頑張ったんだもの、ちょっぴり漫画を読んだってバチはあたらないと思うの。


 勉強机を離れてベッドに横たわり漫画雑誌の『マアガレット』を開くと一息に気持ちが楽になった。千夏の頭を過ぎるのは不平不満に姿を変えた言い訳ばかりだった。


 ―― だいたい試験範囲がメチャクチャなのよ。何で三学期って中間試験がないの? そのせいで範囲が「三学期にやった所ぜんぶ」になるじゃない。勉強する方の身にもなりなさいって!


 なお、三学期が一や二学期と比べて明らかに短いことは考慮されない模様。


 ―― あーあ、早く終わらないかなぁ。期末試験なんて。明日さえ終われば、残りで厄介なのは数学Aだけなのに。中学の頃は楽だったなぁ、テスト五教科だけで。


 高校に入ると科目は十一教科に増える。中学五科目の倍以上だ。正直、一夜漬けの勉強でどうにかなる範疇はんちゅうにはなかった。それこそが、高校に入った途端に成績が落ちてしまう生徒が多いワケなのだ。

 しかし今日は木曜日、明日さえ超えてしまえば土日の休暇が間に挟まり、難しい数学だってたっぷり勉強する時間が作れるというもの。最終日は余裕をもって挑めるだろう。ここが山場なのだ。良い春休みを迎える為に何としても踏み止まらなければいけなかった。だが……。


 ―― それにしても『スライムガール』面白いわ。下水に流されたマヨっち、どうなってしまうのかしら?


 娯楽の誘惑に屈し、一夜漬けも最早これまでかと思われたその時だった。

 窮地に一生、救いの手が千夏の部屋に駆け付けたではないか。


「ちょっと千夏、アンタ何やってんのよ?」

「ち、千鶴ちづるねえちゃん」

「遅くまで頑張っているようだから差し入れを持ってきたのに、千夏ちゃんは漫画よんでるわけ?」


 千鶴は千夏より一つ上の姉で、同じ永新高校の二年生だ。

 凡庸そのものである千夏と異なり、成績は学年でもトップクラス。面倒見がよく相談にものってくれる良き姉だった。ベッドに並んで座り、お菓子をつまみながら話すのが二人の作法。

 姉が淹れてくれた珈琲をすすりながら、千夏はいかに古典の勉強が無意味であるかを熱く語った。それゆえに自分が逃避してしまうのも仕方がない事なのだと。

 なるほど、フムフム。千鶴は適当な相槌をうちながら、お盆からクッキーをとってパクリ。あんまり真面目に聞いていないようで頭はフル回転している。それが千鶴という姉だ。

 千鶴はさも素っ気なさそうな調子で妹の愚痴を切り替えした。


「でも、一年の古典って中西先生でしょ? あの長老タヌキ」

「やだぁ、そのあだ名お姉ちゃんの頃からあったの?」

「あったあった。太っちょだけど温和で教え方も丁寧じゃん。そんなに古典嫌い?」

「うーん、あの先生は好きだけど。役にも立たない活用法を勉強するのが納得いかないというかさぁ。英語ならまだ使うかもしれないからやる気も出るんだけど」

「いや、一緒でしょ。英語も古典も」


 あまりにも意外な答えをあっけらかんと口にする千鶴。千夏は言われた事が飲み込めずに姉の顔をガン見してしまった。姉は同じ答えを繰り返した。


「同じだって、英語も古典も」

「どこがさ?」

「じゃあ千夏ちゃんに訊こう。英語は何の為に勉強するの? 日本人なら必要ないんじゃないの?」

「そりゃあ、外人さんとお話する為でしょ?」

「なら古典も同じ。昔の人とお話する為に古典の文法を学ぶんだよ」


 千夏は脳天に雷が落ちたような気分を味わった。曇天が晴れ、暗闇に陽光が差し込んできたかのような心地だった。


「そっかぁ、昔の人と……」

「そうそう。そりゃ平安時代の人なんて、もう生きてはいないよ? でもその時代の人が何を考え、どんな文化を育んできたのかは当時の作品から探ることが出来るわけ。それって自分たちのルーツじゃん。千夏ちゃんは外人さんとは話すのに、ご先祖さまとは話さないの? 色んなコトの由来を昔の人は知っているはずだよ。まあ、アタシも長老タヌキの受け売りなんだけど」

「うう……ご高説はごもっとも。だけど、テストは明日なんだよね、私が間違っていたのは良く判ったから、お姉ちゃん助けて~」

「仕方ないな。教科書は同じよね、それなら私が去年使ってたノートを見せてあげよう。感謝したまえ」


 優等生のノートは簡潔で一切の無駄が省かれていた。

 姉曰く、どうせテストに出るのは基礎と例外だけだからそれだけ抑えておけば良いものらしい。それから姉は『漫画でわかる源氏物語』を貸してくれた。


「千夏ちゃんには、こっちが判りやすいっしょ? 光源氏誕生の所と、タヌキは夕顔が好きだからそこの章だけ休み時間に読んでおくこと」


 脳みその実力差は、タイムの違いとなってハッキリ現れた。

 千夏が何時間かけても終わらなかった勉強を千鶴はほんの三十分たらずでまとめ上げてしまった。


「まあヤマを張り過ぎな気もするけど、時間がないからね。千夏ちゃん、眠そうだし。点数が悪かったら私も一緒に謝ってあげるから、もう寝なさいって」

「ありがとう、お姉ちゃん! そうなの、もう目がしょぼしょぼ。昨夜も一夜漬けでろくに寝て無くて。ホームルームの時間はずっと寝ていたわ。下校の挨拶で、ようやく起こされたくらい」

「……大丈夫? 大切な話を聞き逃してないでしょうね?」


 こうして、期末テストにおける最大の山場は無事終了した。

 人事を尽くして天命を待つ。そんな格言通り、千夏は穏やかな心で眠りについたのだった。


 翌日の目覚めは爽やかで勝利を確信させるものだった。

 カーテンの隙間から朝日が差し込み、遠くの公園から鳥の囀りが聞こえてきた。まるで世界中が千夏の目覚めを祝福しているような ――そんな気がした。

 彼女は鏡をのぞいて髪に櫛を入れながらほくそ笑んだ。


「ふっ、勝ったな」


 苦手な古典は姉の授けてくれた秘策でバッチリ。今日さえ乗り越えれば土日の休み、数学の勉強はそこで取り組めばどうとでもなる。その先は楽しい春休みだ。友達のナッちゃんと浦安のテーマパークに行く計画が楽しみで仕方なかった。

 何一つ、チリの一粒ほども不安材料はない。盤石たる勝利の朝であった。


 そして試験開始。

 一限目、美術。元々大好きなジャンル、勉強などするまでもない。楽勝。

 二限目、古典。姉の張ったヤマは見事に的中した。教科書の外から出た問題も『源氏物語』の夕顔パートだった。ストーリーと人間関係が押さえてあったので、多少わからなくても解答はできた。自己採点では八十点。一夜漬けの出来ばえとしては上出来だった。


 そしてこれから始める三限は社会。それは千夏の最も得意とする教科。

 驕れる千夏は、もう勝ったものと決めつけて放課後は「自分よくやったアイス」の買い食いを行う事まで脳内決定していた。

 しかし、そのスケジュールは教室の扉を開けて数学教師が現れた瞬間、脆くも崩れ去った。


「昨日のホームルームで言ったように、社会の山上先生は盲腸の手術で急遽入院することになった。従って、試験日程の社会と数学を交換し本日実施するものとする。判ってるな?」


 中学の時は成績優秀だった生徒が高校に上がった途端落第生になってしまう。

 そういう事はままあるもの。なぜなら、それまでは一夜漬けの勉強で出来ていたテストが高校だとまるで追いつかなくなるからだ。


 やっぱ一夜漬けって駄目だわ。千夏はそう思った。


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