第三十話 思わぬ苦労
「
「ああ」
月白の家を出てから一刻ほどして。
石田邸へと戻れば門の前でちょうど
そのまま刑部に一息入れさせた後、昨日と同じく庭に立って稽古を行う。
四半刻ほど経って体が
それは月白から聞いた、
「まさか先生からあの方の名前が出てくるとは思いませんでした」
「京にいた頃に親しくしていた医者が
「堺の……というと、もしや噂の女医者ですか?」
「そっちも知っていたか」
「ええ、有名な方ですので。
迷惑。言葉尻は恥じ入って小さくなっていたが、ハッキリとそう言った。
どうやら月白の名は思ったよりも広がっているらしい。恐らくは、本人が望まないかたちであるが。
「おっと、それはともかく、全宗様についてでしたね。端的に言えば…………優しくはありませんが慈悲深いお方です」
「ほう?」
優しさはない。一方で慈悲はある。一見相反しているようではあるが、その実、両立するものである。
「全宗様は
「…………ふむ」
聞けば大層立派な医者である。同じく人民の痛みや苦しみを癒そうとする月白にとっても、なんら憎むべき所のない振る舞いであり、ああ苦々しい顔をする理由が検討付かない。
「しかしながら、一切の優しさがないんです。あの方の施術には」
「優しさがない?」
「はい。私も視察のため、施薬院に赴いたのですが……あの方は慈悲を以て病人に向き合っていましたが、そこにあるのは冷徹で、作業のような治療でした。恐ろしいほどに的確で、正確で。生死の境を彷徨った者も、
「……それは」
たしかに、腕は立つのであろう。しかしながら、月白という人々に親しまれる月白を知る一刀斎にとっては、多少違和感を覚える振る舞いだった。
とはいえ一刀斎は医者について知らぬ故、どちらが医者として正しいかを判断することは出来ない。出来るのは、せいぜいどちらが好ましいかどうかだ。
「どこか恐ろしさはありましたが、その医術の腕と立ち振る舞いから、治った者も、その家族も、みな一様に全宗様に平伏していました。堺の女医者は人の優しさと温かさを持ち御仏の化身と呼ばれるようですが…………全宗様の超然とした振る舞いもまた、御仏のようでした」
「そういうものか」
一刀斎が思い出したのは、
信心深いわけではないが、神社に縁のある身の上、
普段は神仏を頭に置かぬ一刀斎であっても、その巨大な仏像には圧倒され、その眼差しに背筋が振えたのを覚えている。
一刀斎がそうなのだから、御仏を信じる者らにとってそれはどれほどありがたいものなのか。
施薬院全宗に
己を、己の周りの者を救い上げて見せた男に、
「もし治部の説得が無駄に終われば、先生もお会いになるかもしれませんね」
「羽柴殿の番医に? 体調でも悪いのか?」
「ああいえ、そうでなく。あの御方は健康ですよ」
ならばなぜ、と首を傾げた一刀斎に、刑部は答える。
「殿下が全宗様の働きに感動し、番医頭としてだけでなく相談役としても重用しているのです。全宗様はとても聡明でして、医術以外にもその明晰さを発揮されます。外交を行ったり、治部と共に取り次ぎを行ったり、
「まるで重臣ではないか」
そういえば、月白も「
「ええ。治部も殿下の元、
「治部殿と言えば、今日は遅いな。昨日は今頃には帰ってきたと思ったが」
話を切り替えるわけではなかったが、ふと気になった。
石田治部も政務を司る身である故、
「恐らく、殿下の説得が長引いているんでしょうね。仕事を早々に仕上げて、先生と……もとい、誰かと軽々しく会おうとするのは控えて欲しい、とお話に向かっていました」
「ああ……それは申し訳ないな」
会いたいと言いだしたのは羽柴藤吉郎なので、一刀斎のせい、と言うわけではないが、それでも己が原因となっているならば多少は気に病む。
鋼のような生真面目さを持つ石田治部だが、あのお気楽で騒がしく飄々とした羽柴藤吉郎に付き合うのにはたして苦労はないのだろうか。
いや、昨日の苦々しい顔を思い出せば、きっと苦労ばかりであろう。
「もしかすると説得しきれず、日程の調整になっていそうですね」
「見事な
噂をすれば影である。
昨日と同じく広縁の影から、治部がのそりと現われた。
昨日と違うのは、草臥れているのが目で見て分かるほどに動きがのっそりとしていることか。
面立ちこそは平素と代わっていないが、目がより据わっている。
「佐吉、その様子だとどうやら説得は失敗のようだね?」
「殿下側に思いがけぬ援護が入ってな……」
目頭を指で押さえる姿を見るに、相当参ったようである。やはりまだ
体も細く不健康に見えることもあり、少しだけでも体を鍛えればいいだろうにと思うのは一刀斎のお節介であろう。
「援護……というのは?」
「傍らで話を聞いていた施薬院全宗様だ」
「…………なんと」
噂をすれば、影である。
まさか先ほどまで話題に上がっていたその当人までもが、関わっていたとは。
「伊東殿、
「親交と言うほどのものではない。かつて柳生の郷で顔を会わせていたことがある程度だが」
むしろ親交があるのはその姪で、義理の娘である月白のほうだ。
道三とはいくらか話したが、それでも互いに
「本当のことはどうであれ、全宗様も貴方の名を聞いていたらしく。登城するのに賛成するとのことでした」
「全宗様は聡明だからね……僕たちにも頭の中が読めないお人だからあまり意外ではない」
苦笑いを浮かべながら、
とかく、話の流れと治部の様子を見るに。
「申し訳ありません、伊東様。三日後、殿下とお会いしていただいても?」
「構わん」
三日、というのはきっと治部も最大限働きかけた結果なのだろう。
相手が二人であろうと引くことなく交渉した性根は見事である。
「全く、本来会わねばならぬ相手も少なくないというのに殿下は……」
「もしや、おれが断った方が良かったか?」
「いえ……殿下の望みを可能な限り叶えるのも
気になさらずと言う割りには、締めくくりに大きな溜め息を吐いた治部。
図らずも相当な苦労を掛けたようだ。
――――それにしても。
「なぜ全宗殿は先生に会いたいのでしょうね?」
「さてな」
一刀斎の代わりに、抱いていた疑問を口にする刑部。
いったいなぜ、権勢を動かすほどの医師が、ただの剣士である一刀斎と会おうとするのか。
謎ではあるが。
「まあ、あえば分かるだろう。さて、そろそろ鍛練の続きをしよう。小休止程度には成っただろう」
分からぬことを考えるのは無駄である。ならば稽古をした方がいいだろう。
例え使い道がなく、同じく無駄になろうとも。
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