第二十九話 当代一の医者
「はぁ?
「うむ」
ともすればこの空いた時間、暇を潰すとするならば、思い浮かぶ顔は一つである。
「月白はあったことがなかったのだよな」
「ああ。ないね。会いたいとも思わないしね」
朝から厭な名前を聞いたと、月白は形の整った眉を曲げる。への字にした口は、今にも城に向かって唾でも吐き付けそうである。
「しかしお前も天下一の医者を目指す身。天下を取った将に興味はないのか?」
「天下を取った将であろうと健康そのものならば医者が会いに行く必要などあるまい。医者が相手にするのはあくまで怪我人や病人だ。天下人の
「もっともだ」
仮に一刀斎が羽柴藤吉郎に召し抱えられたとして、あるいは――もちろん冗談の類ではあるが――斬り捨てたとして、天下一の剣客の名を押し上げるかと言われれば違うだろう。
月白の抱く信念は乱れては居ない。人を治す、人を癒す。その点にのみ、己の生を捧げている。
だがしかし。
(……またか)
昨日、月白の横顔に覚えた違和感。常に
医学について語るときも天下一への想いを乗せて、
だが、いまの月白の頬笑みは、春のものとはいくらか遠い。良く言えば、穏やかになったと言えるかも知れない。しかしながら「穏やかになったというのは良く言いすぎだ」という確信が一刀斎の中にはあった。
月白が京にて
対していまの月白から感じるものは、それと比べれば大きく異なる。
しかし一刀斎も、その
その違和はきっと一刀斎にとって、間違いなく――――。
「で、実際どうするつもりなんだ? 会いに行くのか?」
「む? ああ、その件については
「ふむ……その石田治部とやらが噂通りの
「まあ、お前を選んだほどだからな」
「ははは、全く褒められた気がしないな!」
笑い声を上げながらも、額には青筋が浮かんでいる。綺麗な笑顔が台無しである。
今後は羽柴藤吉郎についての話を振るのは止めた方が良かろう。月白に要らぬ苦労を掛けることになりそうである。
「それにあの野郎が」
「あの野郎」
「いや失敬、アイツが私を欲したのはあくまで
「アイツ」でも大して変わらないと思うが。まあ月白にとって羽柴藤吉郎の印象が悪いのは分かりきっていたことである。野郎呼ばわりでもおかしくはないが、あまりにはすっぱな物言いに少しばかり面食らった。
「医者として招くというのであれば、こうまでアイツを疎んだりしないさ。病に罹るのならば、余すことなく治しに掛かろう」
だが、と。眉間に皺を寄せ、目を伏せながら月白は言葉を続ける。
「それは絶対にない。あの男が番医を抱えている限り」
「ばんい?」
聞く限り、かかりつけの医者だろう。自分を診せる医者を限定する理由は分からないが、考えを巡らせるに、己の不調は信頼できる者に任せられるのであればそれが一番である。だからこそ抱えているのだろうが……。
「あの男はな、自分を見るだけの医者を何人も抱えているんだよ。腕が立つ、と評判の医者を呼び寄せて、配下にしている。その中には
「ああ」
全て、合点がいった。
月白が羽柴藤吉郎を疎んでいるのは、なにも誰の元にも嫁ぐつもりがない自分に求婚してきたからだけではない。
名医を揃えたがる羽柴藤吉郎に、医者として見られなかったこと、なにより医者として尊敬している育ての親が、羽柴藤吉郎に取り入ってること。
月白にとってはこの二つが、何よりも気に食わないのだろう。
「伯父御は、道三殿はご健在だったか」
「ああ、健在だとも。僧籍の身でありながら、異国の教えに改宗するほどに足腰共に壮健だ」
「なんと」
月白の伯父で、育ての親である
そんな道三が、改宗するとは一刀斎にとっても耳を疑うことであった。
「改宗と言っても、伯父上は、南蛮の医学を学び取るためだそうだ。漢方医学とはまた違う発展をした医術は大変参考になる、とね。あの人の医学に対する貪欲さは見事と言うほかあるまい。私も驚いたが、伯父上らしいと笑ったものさ。――――とはいえ」
言葉を区切るように、月白は大きな溜め息を吐き出した。
「より深く異国の教えと繋がるため、私とディエゴ殿の仲を仲介しようとしたのは論外だが」
「…………なるほど」
ついでに、
まるで垂らした釣り針に、魚が二重三重繋がっているようである。
「伯父上が改宗するときに頼った僧……いや、あちらでは
「ああ気に入られた訳か」
「それで伯父上は気をよくして縁談なんぞ……思い出しただけで辟易とする」
一刀斎が京で月白に世話になっていたときは、道三とだいぶ疎遠になっていたはずだが。あの後なにかあって再び顔を出すようになったのだろう。
その上で、また疎遠になったのは月白の様子を見れば分かる。
京を離れて大坂に来たのも、人が集まるという他に、道三の元からもっと離れてやろうと意固地になったからかもしれない。
「全く誰も彼も、
「馬司殿はそのように思っていないようだが……」
「ディエゴ殿は……まあそうだな。彼は単純に私に惚れてるだけだ」
普通ならはにかみながら言うだろう
非対称な想いとはなぜこうも虚しいのか、一刀斎は馬司を憐れむ。
「まあ、
昨日の、あるいは今までの馬司の姿を思い出したのか、気が滅入ったとでも言うように額を抑える月白。
病人怪我人を治すのが月白の勤め。健康であるならばそれでなによりなのだろうが、健康すぎるのも考えものらしい。
「……まあそれはともかく、で、一刀斎は登城する気なのか? 豊臣朝臣に会いに」
「断る理由も無いからな。治部殿の働き次第だが、それでも止められなければ会いに行くことになるだろう」
「……一刀斎、お前、本当に剣以外にはほとほと興味がないな?」
断る理由がないから応じる、というのは受動的な答えである。
一刀斎にとっては相手が誰であれ、会おうとも会わずともどちらでもいいことだ。
一刀斎は剣以外に対して自ら動くことはない。それ以外のことに対しては、ほとんど受け身であり、「どうでもよい」と考えている節さえある。
とはいえ月白にとっては、一刀斎のそういう所に好ましさを感じているらしかった。
「まあいい。もし登城するならば、気をつけておけ。豊臣朝臣の周りには一人、厄介な男が居るからな」
厄介な男。そう語る月白の顔は、唐突に険しくなる。
藤吉郎や馬司にしていたような、うんざりとした顔ではない。溢れんばかりの
「
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