第二十九話 当代一の医者

「はぁ? 豊臣とよとみの朝臣あそんに会おうと呼ばれた?」

「うむ」

 くるあさ。朝の素振りを刑部ぎょうぶと共に行った後、昨日と同じく刑部と治部じぶ登城とうじょうし、左近さこんの帰りは昼過ぎになる。五助ごすけ半介はんすけは二人で盤上ばんじょう遊戯ゆうぎに興じていて暇であった。

 柳生やぎゅう新次郎しんじろうに会いに行こうかと思ったが、朝から約束もなく、他の将の屋敷に行くのがけしからぬだろうことは性根からして武芸者である一刀斎とて承知している。

 ともすればこの空いた時間、暇を潰すとするならば、思い浮かぶ顔は一つである。

「月白はあったことがなかったのだよな」

「ああ。ないね。会いたいとも思わないしね」

 朝から厭な名前を聞いたと、月白は形の整った眉を曲げる。への字にした口は、今にも城に向かって唾でも吐き付けそうである。

「しかしお前も天下一の医者を目指す身。天下を取った将に興味はないのか?」

「天下を取った将であろうと健康そのものならば医者が会いに行く必要などあるまい。医者が相手にするのはあくまで怪我人や病人だ。天下人の深爪ふかづめに薬を塗ったとして、病にあえぐ民草を見逃したならば、天下一どころか医者失格だよ」

「もっともだ」

 仮に一刀斎が羽柴藤吉郎に召し抱えられたとして、あるいは――もちろん冗談の類ではあるが――斬り捨てたとして、天下一の剣客の名を押し上げるかと言われれば違うだろう。

 月白の抱く信念は乱れては居ない。人を治す、人を癒す。その点にのみ、己の生を捧げている。

 だがしかし。

(……またか)

 昨日、月白の横顔に覚えた違和感。常に颯爽さっそうと、清々すがすがしくも艶やかな雰囲気を纏っているのが月白である。

 医学について語るときも天下一への想いを乗せて、こえには熱が乗っていた。そして必ず、春の日の光にも負けないほどにその横顔は輝いていた。

 だが、いまの月白の頬笑みは、春のものとはいくらか遠い。良く言えば、穏やかになったと言えるかも知れない。しかしながら「穏やかになったというのは良く言いすぎだ」という確信が一刀斎の中にはあった。

 月白が京にて蓮芽はすめの面倒を見ていたとき、見せたあの優しく柔らかな面立ちこそが、月白の穏やかさである。

 対していまの月白から感じるものは、それと比べれば大きく異なる。

 しかし一刀斎も、その理由わけについて深く考える事が出来なかった。

 その違和はきっと一刀斎にとって、間違いなく――――。

「で、実際どうするつもりなんだ? 会いに行くのか?」

「む? ああ、その件については石田いしだ治部じぶ殿どのが羽柴藤吉郎と話をするらしい。治部殿本人は天下人が軽々動くことを疎んでいるようだからな」

「ふむ……その石田治部とやらが噂通りの能吏のうりであることを祈ろう。豊臣朝臣という男は、とかく優れたものを集めたがる性分らしい。特に、能がある人間をな」

「まあ、お前を選んだほどだからな」

「ははは、全く褒められた気がしないな!」

 笑い声を上げながらも、額には青筋が浮かんでいる。綺麗な笑顔が台無しである。

 今後は羽柴藤吉郎についての話を振るのは止めた方が良かろう。月白に要らぬ苦労を掛けることになりそうである。

「それにあの野郎が」

「あの野郎」

「いや失敬、アイツが私を欲したのはあくまで美貌みてくれとやらを気に入ったからだ。医者としての腕を見られたわけではない。その時点で願い下げだね」

「アイツ」でも大して変わらないと思うが。まあ月白にとって羽柴藤吉郎の印象が悪いのは分かりきっていたことである。野郎呼ばわりでもおかしくはないが、あまりにはすっぱな物言いに少しばかり面食らった。

「医者として招くというのであれば、こうまでアイツを疎んだりしないさ。病に罹るのならば、余すことなく治しに掛かろう」

 だが、と。眉間に皺を寄せ、目を伏せながら月白は言葉を続ける。

「それは絶対にない。あの男がを抱えている限り」

「ばんい?」

 聞く限り、かかりつけの医者だろう。自分を診せる医者を限定する理由は分からないが、考えを巡らせるに、己の不調は信頼できる者に任せられるのであればそれが一番である。だからこそ抱えているのだろうが……。

「あの男はな、自分を見るだけの医者を何人も抱えているんだよ。腕が立つ、と評判の医者を呼び寄せて、配下にしている。その中には伯父上おじうえに師事した弟子も何人かいる。そして伯父上は伯父上で、それを大層お喜びだ」

「ああ」

 全て、合点がいった。

 月白が羽柴藤吉郎を疎んでいるのは、なにも誰の元にも嫁ぐつもりがない自分に求婚してきたからだけではない。

 名医を揃えたがる羽柴藤吉郎に、医者として見られなかったこと、なにより医者として尊敬している育ての親が、羽柴藤吉郎に取り入ってること。

 月白にとってはこの二つが、何よりも気に食わないのだろう。

「伯父御は、道三殿はご健在だったか」

「ああ、健在だとも。僧籍の身でありながら、異国の教えに改宗するほどに足腰共に壮健だ」

「なんと」

 月白の伯父で、育ての親である曲直瀬まなせ道三どうさん医者いしゃひじりと呼ばれるほどの医術の達者であるが、それと同時に仏門にいる僧侶であったはずである。

 そんな道三が、改宗するとは一刀斎にとっても耳を疑うことであった。

「改宗と言っても、伯父上は、南蛮の医学を学び取るためだそうだ。漢方医学とはまた違う発展をした医術は大変参考になる、とね。あの人の医学に対する貪欲さは見事と言うほかあるまい。私も驚いたが、伯父上らしいと笑ったものさ。――――とはいえ」

 言葉を区切るように、月白は大きな溜め息を吐き出した。

「より深く異国の教えと繋がるため、私とディエゴ殿の仲を仲介しようとしたのは論外だが」

「…………なるほど」

 ついでに、馬司ばじ叡吾えいごを鬱陶しがる理由まで分かってしまった。

 まるで垂らした釣り針に、魚が二重三重繋がっているようである。

「伯父上が改宗するときに頼った僧……いや、あちらでは司祭しさいと言うんだったかな? その司祭の元にいたのがディエゴ殿でな。私も南蛮の医術というものに興味があったし、伯父上に付いていったら出会ったわけだ。そしたら」

「ああ気に入られた訳か」

「それで伯父上は気をよくして縁談なんぞ……思い出しただけで辟易とする」

 一刀斎が京で月白に世話になっていたときは、道三とだいぶ疎遠になっていたはずだが。あの後なにかあって再び顔を出すようになったのだろう。

 その上で、また疎遠になったのは月白の様子を見れば分かる。

 京を離れて大坂に来たのも、人が集まるという他に、道三の元からもっと離れてやろうと意固地になったからかもしれない。

「全く誰も彼も、わたしを利用することしか考えていないから腹が立つ」

「馬司殿はそのように思っていないようだが……」

「ディエゴ殿は……まあそうだな。彼は単純に私に惚れてるだけだ」

 普通ならはにかみながら言うだろう面映おもはゆいことを、アッサリと言ってのける。……要するに、馬司に対して深い思いを抱いていないということだろう。

 非対称な想いとはなぜこうも虚しいのか、一刀斎は馬司を憐れむ。

「まあ、好漢こうかんだとは思うがね。伯父上の策があったから苦手だ、というのも幾分いくぶんかはあるが……あとしつこい。情熱があるのはいいがしつこい」

 昨日の、あるいは今までの馬司の姿を思い出したのか、気が滅入ったとでも言うように額を抑える月白。

 病人怪我人を治すのが月白の勤め。健康であるならばそれでなによりなのだろうが、健康すぎるのも考えものらしい。

「……まあそれはともかく、で、一刀斎は登城する気なのか? 豊臣朝臣に会いに」

「断る理由も無いからな。治部殿の働き次第だが、それでも止められなければ会いに行くことになるだろう」

「……一刀斎、お前、本当に剣以外にはほとほと興味がないな?」

 断る理由がないから応じる、というのは受動的な答えである。

 一刀斎にとっては相手が誰であれ、会おうとも会わずともどちらでもいいことだ。

 一刀斎は剣以外に対して自ら動くことはない。それ以外のことに対しては、ほとんど受け身であり、「どうでもよい」と考えている節さえある。

 とはいえ月白にとっては、一刀斎のそういう所に好ましさを感じているらしかった。

「まあいい。もし登城するならば、気をつけておけ。豊臣朝臣の周りには一人、厄介な男が居るからな」

 厄介な男。そう語る月白の顔は、唐突に険しくなる。

 藤吉郎や馬司にしていたような、うんざりとした顔ではない。溢れんばかりの敵愾心てきがいしんと、一切緩みのない警戒心けいかいしんが、月白の表情を支配している。

施薬院やくいん全宗ぜんそう。さっきも話した豊臣朝臣の番医の頭で――――――私の兄弟弟子だ。当代一の医者のくせに、まつりごとなぞにうつつを抜かす頭の切れる馬鹿者だよ」

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