第二十一話 情熱の客

「どうだ、ここが瑠璃光るりこう大坂おおさか出張所しゅっちょうじょだ!」

「どうだ、と言われてもだな」

 かなり、広い。

 京のうなぎの寝床ような、細長い土間に診察部屋や居間や座敷が隣り合っていたあの瑠璃光とは大きく違う。

 寝藁ねわらいてうまやに使えば馬の四、五頭は並べそうな土間に、かまちを一つ上がれば板敷きで、そのままふすまなしに繋がる部屋は十畳はあるだろう。天井に届くほどの薬棚が壁の一面を占有している。

 奥に繋がるふすまは二つ。恐らくどちらも次の間だろうが、一見するだけでは間取りが掴めない。

「そうだな、見かけは広くなったが風呂がなくなってな。それは京が優れている。あとあっちは二階があったがこっちは平屋だ。こっちは薬が多く取っておけるし薬種も手に入りやすいから、どちらにも長じた点があるよ。ああ、荷物は右の棚近くに置いてくれ。その後手は洗ってな」

「ああ、分かった」

 何事も一長一短と言うわけだなどと思いつつ、閉めきっていながら薬の匂いがこぼれ出ている棚の横に薬やら調薬道具やらを置き、戸の側にあった水瓶で手を洗う。

 汚れ落としに水を使うというのは、神社育ちで手水舎ちょうずやが身近にあった一刀斎にとって理解しやすい作業である。

 京で月白に厄介になっていたときは「なぜもうでるわけでもなしに」と思いもしたが、曰く薬師如来がそう語っているとのことである。

 ならば病除けとして信じるには充分すぎるもの、手指が冷えると剣を持つのに苦労もするが、清められて悪い気はしない。

 ……だがしかし、言われるがまま手を洗ってしまったが。

(くつろいでいけと言うことか……)

 京で瑠璃光に世話になり続けていたのが身体に染みついてしまっているらしい。

 まあ、一仕事終えたこともあるし、大谷刑部との約束の時間までまだしばらく時間もある。

「多少やわらいだとはいえ、まだ動けば汗が出るからな」

 土間に足を放り、板敷きの間に腰掛ける月白は、「ほら座れ」とでも言うように、床を手で叩く。

 いつの間にやら、水の入った湯呑まで用意されている。これはこのまま退散というわけには行くまい。

「ああ、そうさせてもらおう」

 ここは言葉に甘えて、少しの時間休ませて貰うとしよう。 

 湯呑の載った盆を間に挟み、一刀斎は月白の隣に座る。

 板の床は軋むことなく巨躯の一刀斎をしかと受け、頑丈さを感じさせる。木を相手にした打ち込みをしたことはあるが、この木なら一刀斎の剣でもそれなりに受け止めてくれるだろう。

「貰うぞ」

「ああ、水ですまないが、茶は尿を促すからね。身体を潤わすなら水の方が良い」

 そう言いつつ、月白も水の入った湯呑を呷る。

 ごくり、ごくりと細い喉が上下して、湯呑から口を離すと同時に、「ふぅ」と小さく、肺に溜まっていた息が漏れた。

 いつも通りの涼しげな顔をしていたからまるで気付かなかったが、頬に髪が一条ひとすじ張り付いている。全く気取らせなかったが、喉が渇いていたのはむしろ月白の方らしい。

「うん? どうした一刀斎」

「いや、なんでもない」

 視線に気付いた月白は、目を丸くして問い掛けてくる。

 見惚みとれていたとは口が裂けても言えることではなく、吐きだした言葉通り、事も無げに盆へと目線を下ろした。

 盆に載った湯呑は一つ。なみなみ入った水は、一刀斎の仏頂面を映している。

 手にとって飲んでみれば、冷えきっては折らず多少のぬるさを感じたが、むしろそれが飲みやすかった。

「あまり冷たいと内臓が弱るし飲みにくいからね。とはいえ人肌ほど温くなった水はそれはそれで飲みにくいが」

「それならば、いくら熱くとも白湯さゆの方がいいな」

 言葉を返しつつ、盆を見遣る。

 盆の上の湯呑は二つ。月白と、一刀斎の分の二つだけであった。

 思い出すのは、京でのとある日。

 西の山中に赤くも冴えた夕影せきえいも消え、寒さが更に増した頃。

 盆に載った、湯気を踊らす生姜湯しょうきょうゆ

 それが、盆の上には載っていた。

「――――蓮芽はすめは、どうしている」

 それを、聞かずにはいられなかった。

 あの夜に、自ら気絶させた蓮芽を預けてそれ以来。己のせいで、気が触れてしまった盲目の芸妓げいぎ。その後を月白と藤花――佐奈に託して、そのままだ。

 苦しめたのは間違いなく己であり、だからこそ、その後が気になってしまう。

 蓮芽には己のことを全て、悪い夢だと忘れてしまえば良いと思っておきながら、自分では忘れるつもりがまるでないのだから、身勝手な話である。

 聞きはしたが、答えなぞ返ってこなくても良かった。どうせ、一刀斎の自己満足に過ぎぬこと。

 月白とて、言いにくかろう――――

「蓮芽か? ああ、元気にしているぞ。さすがに大坂までは連れてこられないから京で留守番だがな」

 と思いきや、驚くほどアッサリ答えた。

 うた一刀斎の心の裡などまるで気にせず、けろりとした顔で湯呑の中の水を見ている。

 余りにも無遠慮なと溜め息一つ吐きたくなったが、あえて水と一緒に飲み込んだ。

 ……だが。

「お前は見てくれや生業なりわいに対して、人の心をよくおもんぱかれる男だからね。蓮芽について、気を揉んでいたのは気付いていたさ。だけど、心配は要らない。あの子は、脆くはない。強い子だよ」

「――――」

 ……敢えて飲み込んだ溜め息が、改めて出た。

 それは月白に対する呆れでは無く、月白がどういう女かを、すっかり忘れていた己に対しての呆れである。

 月白は、たしかに傍迷惑なところがある。たしかに無遠慮でお構いなしに他人に接し、他人の迷惑を考えず思うがままに行動する、軽はずみな女である。

 しかし間違いなく月白は、誰よりも誰かを慈しむ心を持っている。

 本当に、強い女である。もし月白に求婚したのがその心根を見抜いてのことならば、羽柴藤吉郎はやはり見る目はあるだろう。

「……そうか、良かった」

 まだ三味線は続けているのか、佐奈とは親しくやれているのか、良い男は出来たのか。その暗闇と赤色しか映さない目は、光を得たのか。

 聞けるのならば、もっと多くのことを聞きたかったはずなのに。

 ただ無事で、日々を元気に生きていると。

 それを聞いただけなのに、頬が緩み、満たされる。

 腹の底に据わる炎は揺らぐことなくそこにジッと留まっているのにもかかわらず、少しだけ大きく、温かく。胸の上まで、熱で満たす。


「さて……おれはそろそろ戻ろうか」

「む? なんだ、まだ日も高いだろうに。久々に私のようないい女と会ったというのに」

「明日からも会えるだろう」

「それはそうだ」

 これが大谷刑部にあらかた教え、大坂を経つ直前に再会したというならば惜しくはあるが、寄りにも寄って稽古が始まるその日の再会である。

 こちらが会いに来ずとも、月白から会いに来ることさえあるやもしれない。

 いや、流石に呆れるほど腰の軽い月白とは言え、さすがに天下人の家臣の屋敷にはそう容易く来ないだろうが…………。

(来ないだろうか?)

 そんな確信はあまり持てないのが、この月白という女である。

「それならば、暇ならば遊びに来ると良い。私からはいけないからね」

「む、そうか」

 妙な不安が過ぎったが、さすがに月白もその辺りは弁えているらしい。あるいは己に求婚した男のお膝元に近付きたくないからなのか。

 なにせ義理の父であり医術の師である曲直瀬まなせ道三どうさんに、男と縁を結ばれそうになり飛び出したほど嫁入りを疎う女である。

 それもまた有り得ぬ話ではなかった。

「では、またな一刀斎」

「ああ、また……む?」

 何やら外からドタドタと、こちらへ向かう駆け足音。

 広い往来よりひとつ曲がり、表通りの喧騒から離れたからこそその足音を聞き逃すことはない。

 医者のもとに急いでいるのだから、用件などひとつしかなく、「急患か」と身構えるが……。

「やあ月白さんはおられるかな!? 入ってもよろしかろうか!?」

「……ハァ」

 戸の向こうからは、病に苦しんでいる様子でも、怪我人を運んでる様子でもない、やたら陽気で、どこか不自然な口調な声がかけられる。

 それを聞いた瞬間に、身構えていた月白は腹の底からため息を漏らす。

 細い方を上下させ、帯に多少乗るほどに豊かな胸も密かに揺れて、体全体で吐かれた息は凄まじい気苦労が乗せられている。

 そんな大きな呼気をするものだから、当然戸の向こうの主には気付かれて。

「おられるのですね! では失礼いたしますれば!」

 ガラリガラリと、戸が引かれる。

 そこに現れた男をみて、一刀斎は目をみはる。

 背丈は、一刀斎と並ぶかそれ以上はあり、服の上から分かるほど、筋肉が腕に胸につまっている。

 だが、それだけでは関心で足りる。驚愕に繋がることなどない。

 一刀斎が驚いた理由は、その男が、赤い髪と、琥珀色の目をしていたからである。

「また用もないのに医者のもとに来たのか、殿

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