第十五話 鉄と水
畳とは、全て
しかしこの部屋の畳の匂いは、今までの臥してきた畳が全て無臭であったかのようにさえ思うほど薫り高かった。
手に触れてみれば
鴨居や柱に使われる木も、窓から入るかすかな光でも照り輝いて艶めいており、眼前にある襖絵も、名だたる絵師が描いたのか、武芸以外の
さすが天下人と謳われる者の御殿である。
障子一つ介した
「暇だ」
その影を、十や二十は見送ってはや四半刻。その余程忙しい者の一人であろう一刀斎を呼び出した張本人は、未だ来なかった。
ここまで一刀斎を案内した五助に「ここでしばらくお待ち下さい」と言われたが、本当に「しばらく」であった。
初めは畳の香りに襖を眺めているだけでも退屈は凌げたが、それも段々と飽きてきた。
こうにも座ってばかりだと、段々と、素振りをしたくなってくる。
とはいえ、天下人の城で客人がいきなり刀を振るなど後々面倒になるのは目に見えている。なんとも厄介な不自由だと、一刀斎は嘆息した。
「む?」
先ほどまで通り過ぎて行くだけだった足音が、部屋の前で止まった。
障子を見遣れば人影があり、「失礼致す」とハッキリした声が聞こえてきた。
「………………」
「失礼致す」
無言でいると、さっきと全く同じ調子で声が帰ってきた。まるで、「失礼致す」そう言うだけの
二度目の声で許可を求めているのだと気付いた一刀斎は、「構わん」と障子の先へと声かけた。
「では」
影が座し、スルリと戸を開ける。そこにいたのは、二十歳そこらの若者である。
目尻は長くやたらと鋭く、ただ目を開けているだけで半眼で睨め付けているような視線となっている。
肌は浅黒く、口は真一文字に結ばれており、愛想の無さが、余計に厳しさを増して見させていた。
しかし、袂から見える手の指は細く、体が細い。真顔は厳めしく見えるがまだ
「御身が
「否です」
その答えは一刀斎と訊き終えたとほぼ同時。恐ろしくキッパリと、口調に澱みすらない窮めて怜悧な返答だった。
「大谷刑部殿は
「御身は手が空いたのか」
「否です」
またもや即答。この男は手が空いた訳でもないのに、なぜこうして顔を見せたのか。
「この城に、殿下の傘下にない者が来た以上、それが客であれ何者であるか、
殿下、というのは羽柴藤吉郎秀吉であろう。一刀斎の脳裡に残る羽柴藤吉郎は、若武者上がりの飄々と明るいお調子者であり、そのような
それはとかく。
「つまり御身は客人の応接役か」
「然りです」
初めて、否定以外の返事を訊いた。返答が否でも応でも素早い返し。若さに似つかわしくない毅然とした断言口調である。か細い体に反して、相当な度胸があると見た。
「では最初に訊きますが、名前をお願いします」
「うん? 大谷刑部殿か五助殿から聞いていなかったか?」
「聞きましたが」
それがどうかしたのかと言わんばかりに、真っ直ぐにこちらを見ている。
聞いているのに改めて聞く必要などあるのかと思ったがしかし、この
「……
「なにを
「武芸者だが?」
この質問で分かった。この青年、凄まじく堅苦しい。
生真面目、四角四面とはこの男のために用意された言葉だと言われれば、「ああ、間違いない」と
「出身は」
「……伊豆だ」
本当は大島だが、あれを出身と言うのは甚だ気色悪かったのでつい誤魔化してしまうがまあ、あそこも伊豆で間違いないから嘘を吐いているわけではなかろう。
「ここに来た理由は」
「御身の友人である大谷刑部殿に剣を教えるためだ」
間違いなく知ってるだろうが、と言いたくなる気持ちを抑えしかと答える。
いったいこの若者は、どういう心持ちで既に知っていることを改めて訊ねているのだろうか。
眉一つ動かさず、
本当に、絡繰か何かではなかろうか。
「貴方は、北条に縁があったと思いますが」
「北条? ああ」
しかし脳味噌が動けば、思い当たる節がある。
「確かに、
「今でも交流が?」
「勘解由左衛門殿は
一刀斎のその答えに、青年の厳しい顔の中で多少は柔らかかった眉が、真一文字に結ばれた。眉間にこそシワは寄っていないものの、睨め付けるような視線である。
ひとつ、雰囲気が変わった
「殿下は、天下人となりました。しかし未だこの日の本全土を手中に収めたわけではありません。巷はまだ戦乱が収まらず、
「なるほど……」
要するに、この青年は疑っているのだ。一刀斎を。
「貴方は、北条の間者では?」
「いや、違うが」
疑っても仕方ないが、しかしながら、一刀斎は北条とはなんの関係もない。小田原に滞在したことはあるが城に入ったことなどなく、相模の主である北条と顔を突き合わせたこともない。
「おれは、誰にも仕える気はない。誰かの下に付くのが気に食わないというわけではない。単に、そういう性分なだけだ。間者など、小賢しいことをする知恵もない。恩もない相手に、そう報いようなどとも思わん」
なによりも、だ。
「おれが仕えてもいいと思ったのは、
それは、炎が内包する全ての意味を宿した男。
豊臣朝臣羽柴藤吉郎秀吉の主にして、奴よりも早く、天下一に手を伸ばしていた野心家。
恩もない相手に報いようとは思わないがしかし、一刀斎は織田尾張守に、報おうと思う恩がある。
「……
功の内容が、残されていない。それはつまり織田尾張守は、最後まで一刀斎との約束を守ったと言うことだろう。
「貴方は、前右府の代わりに殿下に仕えようと?」
「その気はない。ここに来たのは御身も知っているとおり、御身の
青年の目は、一刀斎の言葉をしかと見ていた。
信じきるにしても、疑いきるにしても、この青年は一刀斎の人となりを知らない。故に、正しく判じることは出来ないだろう。
ただ沈着に、一刀斎の言葉が嘘であるか真であるかを、見抜こうとしている目だ。
続いていた詰問が止まり、問答で揺らいでいた部屋の空気が徐々に静まり、完全に止まろうとした。――ちょうど、そのとき。
「やれやれ、
隣室に繋がる襖が開かれ、奥から新しい顔が現われた。
鉄のように厳しい眼前の青年と比べ、水のように清く柔らかな表情をした青年であった。
目の前の青年は不健康に浅黒いが、後から現われた方も、不健康に白く見える。
線が細いのは共通しているが、相反している二人のようにも見えた。
「お客人……ということは」
「改めまして、
「
――――ああ、そういえば、この青年の名は、聞いていなかった。
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