第十二話 師という存在

「かっはっはっはっは! それは痛快じゃのう!」

「でしょうでしょう! あんときの俺は神懸かってた! 間違いねえ!!」

 さっきまでの神妙な空気は、さっきの彼方に置いて行かれた。

 自斎じさい左衛門さえもん入道にゅうどうは、まだ昼間だというのに酒と般若湯はんにゃとうをそれぞれ呑んで騒いでいる。

 跪いていたはずの自斎は、見上げていたはずの左衛門入道と肩を並べて大笑い。

 どちらも似通った笑い方なのは、どうやら師弟していだからなのだろう。

富田とだ五郎左衛門ごろうざえもん……名は聞いていたが」

 かつて自斎が語っていた師の片割れ。

 中条流を覚え切るより前、若くして盲目となり、全てを修めることが出来なかった不幸の剣客。

 しかしながら、光を失う前に覚えた剣技わざを磨き上げ、仕合において無双の域に達した剛の者。

 目が見えぬのならばと、心法しんぽうを窮めて達人となった先達せんだつである。

「まさか、御坊がそうだったとは」

 道理で、富田流の一門にああも懐かれ絡まれるわけである。なにせ、己等が学んでいた流派のいしずえだ。己等がまた立ち上がるために、頼り担ぎたくもなるのだろう。

 思い返せば、盲目で人の心をたやすく読み、武について深い理解がある。

 かつて聞きし富田五郎左衛門そのままである。

 それでも思い至らなかったのは単純に、その存在を忘れて慮外りょがいであったことと、なにより疑問に思っても深く考えなかったからである。

「ええ、爺様が剣を取っていたときは、それはもう相当なものでしたよ。父の久右衛門ひさえもんも、ついぞ勝つことが叶いませんでした」

久右衛門ひさえもんたあ懐かしい名前だ。なんだ、お前あいつの息子か!」

「はい、せき善左衛門ぜんざえもんと申します。父ともお知り合いでしたか」

おう、真面目に中条流を修めようとした気概のある奴だった。少し生真面目だったところはあるが……いまは何を?」

「儂の育てがよかったからの。いまでは立派な中条流の遣い手、加賀で平法へいほうを教えておる」

 それは、一刀斎も初耳であった。自分はとことん他人に無関心なのだとほとほと呆れてしまう。

 この旅の間、いったいなにを話してきたのか思い返してもとりとめのない雑談か、われて話したいままでの旅の話ばかりであり、この二人についてしかと訊いていなかった。

「へえ、そいつあすげえ。加賀って言ったら、最近畿内で幅を利かせてるくだん天下人てんかびとが頼りにしてる奴が入ってんじゃあなかったか?」

「まさに、その人のところで教えておる」

「前田様にはお世話になっております。…………そう考えれば、伊東殿とも遠い付き合いが出来ると言うことでしょうか」

「ん? どういうこった?」

「そういえば、言っていなかったな」

 元々一刀斎は、堺を目指して旅をしているのである。

 旅の理由はその天下人、豊臣とよとみの朝臣あそん羽柴はしば秀吉ひでよしの臣を名乗る者が一刀斎に教えを乞いたいと文を送ってきたので、会うためである。

「なんたお前、いつまでも織部んところに厄介になってると思ったら、とうとう禄を食む気になったのかよ?」

「そういうつもりではない。ただ、いくらか興味があってな」

 なにせ、一刀斎が約束を交わした相手が、ついぞ叶えられなかった野望を果たした者の配下である。

 大元からだいぶ離れるが、これもなにかの縁だろう。ちょうど暇を持て余していたこともあり、赴くのも良いだろうと思い至った次第である。

「へっ、だとしたら俺は弟子から天下人に人ひとり送ったってことか。武芸者冥利に尽きるってもんだぜ」

「全くじゃわい。弟子の成長を楽しむようになるとは、お前も武芸者の醍醐味を知ったの」

 武芸者の楽しみとは、どうやら鍛えるだけではないらしい。一刀斎も弟子を取ったが、同時に鑓を教わっていた。だから「育てる楽しみ」というのをあまり理解していない。甲四郎や典膳に教えていたときは、相応の面白さがあったが。

「おれも堺に着けばその面白さが分かるだろうか」

「さてな、相手は将だろう? だとしたらこの愉快さは味わえねえかもしれねえ」

「道楽で剣を覚えるつもりなら、さほど熱中もせんだろうしのう……儂らも越前にいたときは全てに悦を感じていたわけではないからの」

「どうしようもねえ阿呆共もいたからな」

「そのようだな」

 そのどうしようもない阿呆共を、散々叩きのめてからここに来たから分かる。とはいえ、仮にも天下人の臣である。あのようなろくでなしではないだろう。畢竟ひっきょう会ってみなければ分からないが。

「まあ、そのどうしようもない者達は伊東殿が一掃してくれたがの」

「おうそれだそれ、さっきも聞いたが一刀斎、よくやった!」

 膝をパンと叩いた自斎は、いつも以上の満面の笑み。長い間引っかかっていた胸のつかえがようやく取れたような、爽快極まる表情である。

 越前をひたすら嫌っていた自斎の、その嫌いの代表たるものがその阿呆共だったのは察しが付く。

 それを自ら育てた弟子が叩きのめしたのだから、それは相当胸がすくだろう。

「それにお前はこうして師匠の道案内までしかと務めた。俺の自慢の弟子だ。お前も誇れよ、あの印牧自斎が誇る天下一の剣豪だってな!」

「その言い方だと師匠の方が目立っているな」

 全く以て自斎らしいが。別段自斎の役に立とうとしてやったわけではなく単にここまで来るのに邪魔だったから片付けただけであったが、喜ばれて悪い気がするわけではない。師匠孝行をしたと思って、大いに喜んで貰っていた方が良いだろう。

「…………しかし、お主には真に申し訳ないことをしたの」

「む?」

 水を差さずにしておこうと一刀斎が息を飲んだがしかし、乾いた空気を湿らせたのは、今まで呵々カカと笑っていた左衛門入道である。

 いつも通り伏せた目は、いつも以上に深く閉じられているように見える。

「儂がもっとしっかりしておれば、あのときのような惨事は起きなかっただろうに。すまなんだ、自斎」

 その声音は、深く澄み渡っていた。心の裡の、奥底から放たれた言葉であった。

 本来ならばかしこまった場でもなく、厳粛な空気でもないこの場所で言うのは間違いに思えるかも知れないが、しかしながら、心そのまま現われた謝罪の念は、場違いかどうかなどどうでもよくなるほど、誠心まごころ込められた言葉であった。

 きっとその言葉は、左衛門入道が遥か以前から自斎へと告げたかった言葉なのだろう。

 この場がどういう場所であるかなど、左衛門入道自身が抱く意志と悔いの前では些事さじである。

「…………まあ、そうかも知れませんがね。あなたを恨みがましく思ったことも、あるにはある」

 左衛門入道の言葉を受けて、自斎は身近にあった酒甕さかがめを手繰り寄せる。

 そういえば、あれで頭を一発殴り飛ばされそうになったことが幾度かあったなと思い出したがしかし、そんな心配は、今は不要だろう。

「だけどそれは昔の話、こうして会った今、怨み言は一つも出てこねえ。あなたにこうしてまた相見えることが出来た。その喜びの方が遥かに勝る。勝るどころか、そうして謝られるまで恨みがましいと思ってたことも忘れていた」

 だから、気にしないで欲しいと、そう言いたげに酒甕から般若湯を左衛門入道の器へと注ぐ。

「あなたの気持ちは充分伝わった。だからあとは、さっきまでのように騒ぐだけよ!」

 沈み湿っていた空気は自斎の大笑声だいしょうせいで吹き飛ばされて、まるではなから無かったかのようにカラリと爽快な宴の様子へまた戻る。

 自斎は身勝手自分勝手な男であるがしかし、本当に気持ちの良い男である。

「…………いい師匠ですね、自斎殿は」

「ああ、他人に自慢できる師匠ひとではないが」

 させられてきた苦労も多く、厭と言うほど振り回されたこともあり、修行で体を余すところなく痛み付けられた相手であるが、それでも自斎は一刀斎にとってであったのは、間違いない。

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