第四話 模糊けた魂
「たしか、
「ほう、よく知っておるな」
越前一の街、
宿に決めた
「おれの師匠が、元々その一門だった。俺が会った頃には既に越前を出奔していて、この国を酷く嫌っていたようだが……」
そこまで言ってふと思い出した。初めて決闘した相手も確か富田流を名乗っていた。なにやらかなり偉ぶっていた男だったが、正直、もうその決闘の印象は薄い。なにせ、振り下ろした一撃で決したのだから感慨を抱くことも出来なかったし、その晩の方が、衝撃的だった。
織部の肩を壊したらしいことには、多少なりとも腹が立つが。
「ほう、その看板を譲ったという者か。…………ふむ」
盲目の僧侶は首を傾けて、馬の尾のような顎髭を撫で付けている。長い髭を、生え際から先まで三度撫でたところで「もしや」と口を開いた。
「もしやその師匠というのは……
老体の問いに、一刀斎は目を丸くした。
一刀斎は、自分の師匠の
「おれは、師匠の
「なるほど自斎……自らを住処とすか。
「おれの師を知っているのか?」
「大昔に
左衛門入道は、しきりに頷いている。目を瞑っていることもあって、まるで居眠りを漕いでいるようにもみえるほど、何度も何度も繰り返していた。
「……師匠はひどく越前を嫌っていたからな。あそこでなにが起きたかは、なにも聞いていない。ただ、越前の朝倉を出奔して、
「近江の堅田。
「ああ、だいぶしつこい奴もいたようだが……」
例えば、ついさっき思い出した「富田の一放」という男。
自斎に剣を教わっていた織部の肩を壊し、どこから噂を聞きつけたのやら。その織部がこの越前や近江から遠く離れた伊豆伊東で、何処とも知らぬ天狗の子に剣を教えていると聞けばたちまちやってくるような奴だ。
耳の良さも足の速さも尋常でなく、それを活かす
…………しかし、裏を返せばだ。
「師匠は、それほどまでに富田の一門に嫌われていたのか?」
「そうじゃのう。印牧の者達は他の連中と反りが合わんかったのは確かだわの。朝倉では武を奨励していた時代もあったが、代替わりもあって文偏重になってきてのう。元々武張った者達が多かった印牧家はその流れに乗れんかった」
「…………そうか」
もしかしたらこの老人は、その朝倉に深く関係している人間なのかもしれない。いや、朝倉と言うよりも、富田流にか。
かつての富田流についてこうも詳しく、加えて
「御身は、師匠のことを疎んでいたか?」
「はっはっはっはっは。ワシはあれがちっこい子どもの頃から知っておるからの。煩わしいと思ったことがあったとしても、年の離れた小僧を疎むなど出来はせん」
巌のような自斎と比べて、左衛門入道は年を召してることもあり細く手も小さいが、その
「だがしかし、それならいっそうその看板を掛けるのは勧められんのう。やたら耳目の聞く者達がおるからの。お前さんが彼奴の弟子だと知っている者も多かろう。あやつらの目に止ろうものなら、大挙として押し寄せて来かねん」
「ふむ……それは面倒だな」
一刀斎が看板を掛けるのは、どこであろうと天下一であることを心掛けるため。ついでにその名を見て触発された武芸者を誘って仕合うため。天下一を広め高みに押し上げるために、必要だから行っている。
とはいえ、それで他人に面倒を掛ける気は無い。
自分に対する恨み辛みを向けられて襲撃されたことはあるが、それは己の撒いた種。甘んじて受けよう。だがしかし、自分と関係ない自斎の因縁で絡まれるのは面倒臭い。正直、恨み辛みで襲撃されるのも嫌気が差す。
挑まれるのであれば、単純に剣への自身と己への興味で挑まれたいのが本音である。
面倒事になるのであれば、今日ぐらいは看板を掛けない方が良いだろう。
元より
「さて、そろそろ日が暮れるころかの。話を聞くに長く歩いて野宿も多いご様子。小僧に風呂でも沸かせて飯の支度も頼んでおこう」
「なにからなにまで助かる、御坊」
「なあに構わん。客人を招くことなぞ滅多にないからの。旅の疲れをしっかり取るんじゃな」
そう言って頷くと、慣れた様子で部屋から出て行く左衛門入道。
左衛門入道が出やすいように開け放しにしていた戸を閉めて、一刀斎は畳に寝転がる。
嗅がずとも香る
なんせ、こちらの方が疲れが取れて心が
特に、風呂はありがたい。あれを初めて体験したのは二十年前だろうか、極楽の心地であった。
「…………そうか。もう二十年になるか」
京の街を出、
郷の主である
柳生の郷には、あの一度きりしか赴いておらず、新左衛門やその妻の桃とも、あれっきり会っていない。
あのときあの場にいた者で、再び顔を合せたことがあるのは、たまさか出会った月白ぐらいである。
「月白か……」
頭の中で、ぼんやりと記憶した地図を思い起こす。今回の目的地である堺は、京を通り過ぎた先にあったはずだ。
つまり、京を横切るわけである。月白はきっと、まだ京にいるであろう。
だがしかし、会いに行こうという気が、起きなかった。
あの事件からもう何年か経っているが、月白の元には、まだあの少女がいるはずだ。そしてその側にいろと、命じた女がいるはずだ。
だとしたら…………。
「情けない話だ」
いくら剣法と心法を学び修めて高めようとも、女一人、二人に会うことすら恐れてしまう。
とはいっても、鍛えれば女が得意になるものかと言えばそうではない。剣と心を鍛えたところで手に入るのは、剣の腕と心の使い方ぐらいである。
剣を振るしか能がない身である以上、それ以外に
そんな能しかない一刀斎なのだから、あの少女達と
……しかしながら。
「……少し、惜しい」
ここ数日、改めて天下一について思いを馳せたからだろうか。それとも一度記憶から呼び起こしたからだろうか。
再び月白のことが脳裡に浮かんだ。
才走り、男染みて、なのに纏う色香と体付きは成熟した女のそれを持ちながら、子どものような爛漫さを有したままの女だった。
天下一の医者になると大口を叩き、常に頬笑みをたたえて胸を張る。武と医と歩く道は掛け離れていながらも、同じく天下一を目指す者同士と、互いに互いが励みとなった相手である。
あの少女たち――
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