戟火(げっか)の章
大坂編
第一話 西からの誘い
三島神社の社務所の屋根に、寝転がっていた一刀斎は青い空を見上げながらまだ夏めいた空を見詰めていた。
「おーい
「ああ、もう済んだ」
秋が来ると言うことは、もうじき海から
小田原から三島神社に戻った一刀斎は、
しかしもうそれは済んでいて、滅多に上れぬ屋根の上を楽しんでいる。
「どれどれっと……おー、よーく出来てるじゃねえか」
上がってきたのは信太である。三島神社の宮司になって何年経ったか。多少は織部のような箔が付いた……とは言い切れない。
未だに小僧の性分が抜けておらず、周りに苦労を掛けている。
だが、織部のように村の頼れる存在とはまた違う、村の中心にいる人間になっている。
こうも直らぬ性格ならば、短所ではなくむしろ長所だ。これもある種の
「いやあ、しっかし良い天気だわなあ。瓦も熱いがこれはこれで心地良い」
「ああ、これから涼しくなってくるだろう。野分が過ぎれば暑さが戻ってくるだろうが」
「そん時は大助んとこの温泉にでも浸かりにいこうぜ。汗を流すならあそこが一番だ」
信太は「よっこらせ」と、お気楽そうに寝転がる。
「そういやあ知ってるかよ弥五郎、畿内の話?」
「日がな一日剣を振るうか神社の雑事をやるだけでな。なにかあったのか?」
「天下人が生まれたんだとさ」
「なに?」
天下。一刀斎が
その天下の下に人が付くならば気にならないはずがない。
「それも五畿内どころか、七道全部に手を伸ばそうってとんでもねえお方らしいぜ。いったいどんな才人なのかねえ」
「その者の名前は?」
「名前? あー、利市なんて言ってたっけなあ………………」
頭の中を探るように、中空に指で文字を書く信太。いろはの一つ一つを並べていって後ろの方で「ああ」と頷いた。
「思い出したわ。
「――――――――」
聞き覚えの、ある名前だった。
知っていると言っても言葉を交したことがあるわけではなく、遠目に一人で喋っているのを見ていただけ。ないし、その目の前で、剣を振るったことがあるだけだ。
「なんだ、知り合いだったか?」
「名前と顔だけはな」
羽柴藤吉郎という名前を聞いたのは、そのしばらく後である。
織田尾張守の訃報を聞いて京へと赴いたとき、主の仇討ちを手早く済ませ、京の混乱を収めたのがその男だったらしい。
京を乱すことなく治めていたのを見るに相当な才気はあったのだろうが、よもやそのまま支配する者として登り詰めているとは思わなかった。
「世の中はまるで分からんな……」
「人間明日のことだって分かりゃしねえさ。明日の予定決めてようがそれ通りに行くわけでもねえし、予定通りこなしたらそりゃすげえけど」
空に文字を描いていた手で、大あくびをかく口を隠す。
その呆れるほど穏やかで呑気な象徴がこの
やはりある意味で、信太はこの村の
「しかし……天下か……」
藤吉郎の名前を聞いて、やはり思い出すのはその主である。
織田尾張守。自分と同じく天下を目指していた男。
尾張守が目指す天下とは
なにせ仕官に誘われて、己に縁のある近江かこの伊豆かを与えようとまで言っていたのだ。尾張守はこの日の本全てを指して、「天下」と語っていた。
そのときは仕官する気などまるでなく、剣を鍛えることばかりを追い求めていたから断ったが、ひとつの条件の元に、その郎党に名を連ねてもよいと
書状も血判もない、ただの口約束ではあるが、同じ天下一を目指す男同士の約束であった。
その約束は、織田尾張守が死んだ以上、果たされることはなくなってしまったのだが。
織田尾張守は天下に手を触れかけて、ついぞそれは叶わなかったが、代わりに家臣が成し遂げた。
きっとあの世ではさぞ悔しがっているか、喜んでいるか、あるいは……、あの世の天下取りに興じて、まるで興味を示さないかだ。
「代わりにか……」
もしかしたら織田尾張守との約束を成すならば、尾張守の代わりに天下を取った羽柴藤吉郎の元に行くのもありかも知れない。
とはいえそれは、あくまでもしの話だ。唯一付いても良いといった織田尾張守がいない今、自分から誰かの下に付こうという気は起きない。
「おーい弥五郎ー」
「む?」
なにやら呼ばれたので起き上がり、軒下を見下ろす。するとそこには、村一の商人になった利市の姿があった。
「利市か、どうした」
「ウチでやり取りしてる船にお前宛の文があったからな、届けに来たぞ」
「お前直々にか?」
「信太に用があってな。文を持ってきた奴が手土産に酒を持ってきた。大助もこれから誘うつもりだ」
「そいつぁホントか?」
自分の名前が呼ばれたかと思ったら、信太は前に転がるようにして軒から顔を出した。本当に耳聡い奴である。
利市もそんな幼馴染を見て、肩を竦めて苦笑していた。
「弥五郎もどうだ?」
「そもそもそれはおれに向けてのものだろう」
まあ、別に酒は好まないから構わないのだが。
一刀斎ははしごを三、四段だけ下りて、そのまま地面に飛び降りた。
「いったいどこからだ?」
「
「さかい……どこだ?」
「
「
「堺はその中心辺りだな」
三人で
もう隠居の身であるからか神職らしい服装はしておらず、もうしばらく「楽だから」と
「だいぶ遠いところから文が来たな。お前の剣名も広く行き渡っていると見た」
「そうだな……しばらくあちらには行っていないが」
畿内、細かく言うなら京に二度ほど滞在したことはあるが、それはもう何年も前の話だ。二度目はここ数年のことだが…………。
「前に京にいたときはおれのことを覚えていた輩もいた。今回もその手合いかもしれん」
お陰で酷い目に遭った、否遭わせてしまった苦い記憶が蘇る。どうやら無意識に、思い出すことを避けていたらしい。記憶の中にずっと閉じ込めていたせいか、久々に現われたその
「それで文とやらは」
「ああ、これだ」
利市から文を受け取って、表に出た
果たして何用かと見てみれば。
「ふむ……剣を教えて欲しいか」
「ってことは弟子入り志願か?」
「いや、そうではないようだ」
文を広げて読んでみれば、どうやらどこかしらの畿内の将らしい。
主家が発展していくと同時に剣の腕を鍛えておきたいらしく、そこで白羽の矢が立ったのが、京で活動していたこともある一刀斎だったようだ。
「そんで、その鍛えてくれって相手はどこのどなた様なんだよ?」
「うむ、送り主の名は……――――」
さっさと末尾に書かれた名前を見ようと、文を流し見る、だがしかし、署名の直前に書かれていた文言、文を出した送り主が書いていた、主の名前で目が止まる。
…………まさか、これはなにかの奇遇だろうか。それとも……。
「弥五郎? どうしたんだよ?」
「……送り主は、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます