第三十七話 一つの流れ

 神子上みこがみ典膳てんぜんの朝は早い。

 鳥が朝を告げるより、朝日あさひ東雲しののめを照らすより、早く起きる。目が覚めきっている自分より早く起きている者は、寝惚け眼をこする奉公人ぐらいだ。

 あの男が、現われるまではだったが。

「伊東殿は、本当に早く起きるのですね」

「別に起きるときが決まっているわけではないがな。前の日に起きようと思ったときには起きられるが」

「いやはや……大したものです。私はこう早く起きるのはどうにも」

 すっかり目を覚ましている一刀斎と典膳と異なり、土佐守とさのかみの目はどこか惚けている。

「すまんな。朝早くに。弁当まで用意して貰って感謝する」

「構いません、船は使わないのですか?」

「船は苦手でな。返事を急ぐなら…………海から行くが」

「いえ……急ぎではありませんので」

 元より急ぎの文ではないものだから、急かすことはない。だがそれ以上に「海から行く」と言うまでに要した間が、そう吐き出した顔が、なんとも嫌そうに思えたからだ。

 どうやら本当に海は嫌いらしい。これほどまでに嫌いだとは、過去に何かしら遭ったのだろう。

「では、伊東殿もますますのご活躍を期待しております」

「ああ、そちらも壮健で。……典膳」

「はい」

「よく鍛えるんだぞ」

 見送りに来た典膳の手には、既に木刀が握られている。一刀斎を見送った後、いつものように鍛練を始めるつもりなのだろう。

「はい。戴いた教えは、しかと胸に留めます」

「一日ばかりの付き合いだ。多くは教えていない」

「しかし、大きなことを教えて戴きました」

 その目は、かつてのような凪いで揺れない瞳ではなかった。中心に、熱が宿っている。

 その熱はまだ、大きく強いものではない。熾きたばかりの火種でしかない。その火はこれから、典膳が大きくしていくものだ。

「いまはまだ、自分は技をなぞることしか出来ません。己の心のままに振るうというのも、どういうものなのか掴めておりません。……ですが一つだけ見付けられたものがありました」

「それは?」

 一つだけ、そう口にした典膳の熱が、僅かに増した。灯台のように、遥か遠大な場所まで届こうとする光のような、そんな篝火にも似ていた。

「理想です。私は、理想が出来ました」

 理想。こころが暴走せず、自由であるための指針。己を見失わず、そしてこころを研ぎ澄ます事が出来る己の心王にすわるもの。

 ある意味で、剣を描くことよりも、心のままに振るうよりも、先に自覚しておくべきものである。

「その理想とは?」

「はい、私の理想とは」

 一拍おいて、息を吸う典膳。火が風をはらむように、呼気が典膳の目を、より輝かせた。

「私は、伊東殿のように綺麗な剣を描きたいです」

「――――――」

 綺麗な剣。典膳の目には、一刀斎の剣がそう見えていた。

 剣のように、磨くほどに煌めく武技。立ち塞がる全てを斬り越えて、「見えないもの」さえ斬ることが出来る剣。

 それは、一刀斎にとって理想の形。

 それを知るはずもない典膳の言葉は、きっと偶然のものだろう。

 だがしかし、たった数回の素振りと、十数度の打ち合いを経て、「綺麗そうだ」と感じたのならば、感じさせることが出来たのならば。

 伊東一刀斎おのれという剣豪は、理想に近付いている。天下一と呼ばれてなお、未だ手に入れることが出来ていない理想に、少しずつだが近付いている。

 そう、熱い歓喜が込み上げた。

「…………そうか、おれの剣は、綺麗であったか」

「はい、貴方様の剣は、見事に鮮やかなものでした」

 技倆ぎりょうを指して語っているのか。それとも、本当に一刀斎の追い求める綺麗な剣が描かれていたのか。知らぬ内に放っていた綺麗な剣が、類い稀な技巧に見えたのか。

 典膳の目には、どう映っていたのか。それは、当然の如く一刀斎には分からない。

 だが、どういう意味であろうともだ。

「ありがとう、典膳」

「いえ、礼を承るほどのことでは…………伊東様?」

 普段は、一分いちぶ変わればそれだけの頬が、それ以上にあがっている。

 半眼で、睨み潰すような厳めしさのある目のまなじりが、少しだけ下を向いている。

 天下一の剣術遣いの名に違わず、剛毅ごうき木訥ぼくとつとした巌のような男が見せたその頬笑みは、典膳の知る一刀斎とは大きく異なり、柔らかく見えた。

「……では、そろそろ行くことにしよう。……典膳」

 別れの間際に、一刀斎は典膳を見遣る。もう、武芸者としての気質を備え、理想を定めた典膳に伝えることは、唯一つ。

「強くなれ」

「はいっ」

 力強い返事には、宿った熱が込められている。良い返事だ。願わくばこの剣客しょうねんが、このまま捻れず、あるいは熱にうなされず、ひたすら直向きに剣を鍛え続けて行くことを。

「達者でな」

 願わくばこの種火しょうねんが、天下に名を轟かす剣豪となることを。

 

 小田原へと戻る道中、ふと思う。

「おれも、遠くに来たか」

 自分に多くを教えた師や先達たちは、今の自分よりは多少は上だったか。この歳になり、初めて古藤田勘解由左衛門という弟子が出来たが、同時にその勘解由左衛門には槍を教わっている。互いに師で弟子の関係であり、歳も近いこともあって「師匠になった」という意識がなかった。

 そんな中、自分が剣を覚えた頃と同じ歳の少年と出逢った。

 自分が導かれたように―たった一日、少しばかり手を合せただけだが―、典膳を導くことが出来た。

 たった一つのことながら、一つが大きな流れを生むこともある。

 鳥の群れに一石投じれば、群れは彼方に飛んで行くだろう。

 木材と木材に一釘打てば、繋がり離れることはないだろう。

 空きっ腹に一つの握り飯を食えば、心が満たされるだろう。

 一刀斎は理想の一つを突き一つを積み重ね、そうしてここまで、辿り着いた。

「……屈辱や敗北ならだいぶ与えてきたが」

 そんな自分が、火種を育てる側になったと、今更ながら思う。

 小次郎や甲四郎など、年下の者の相手をしたことがある。とはいえ一刀斎は、ずっと己だけを鍛えてきたようなものだ。

 勘解由左衛門との付き合いが出来た時点で気付くべきだったやもしれないが、自分はどうにも鈍かった。

「弟子、か」

 たしか、勘解由左衛門が技を紙に記録していたか。

 一刀斎にとって技は身体の内に染み込んでいるものであって、書に記すという発想があまりなかった。実際、自斎には口伝くでん……もとい直伝じきでんで教わっており、そもそもが自斎の文字など「外他一刀斎景久」と「卍」ぐらいしか見たことがない。

 伝え、残し、繋ぐ。共通する流儀りゅうぎ理合りあいを学ぶことで、一人一人異なる理想の剣に辿り着く元となる。

 ならば、武芸者としての役目とは、己を鍛えるだけではないらしい。ただ天下一を目指し、天下一に到り、天をこの手で押し上げることばかりを考えてきたがしかし。

「……教えるとは、思ったよりも奥深いものだ」

 ふと、東を見遣れば、崖に挟まれた小さな入り江がそこにあった。朝日に照らされた大きな波と、細かい飛沫の一つまでもが音を立て、崖に強く打ち付けている。

 そのとき崖の表面が、波に打たれてはらりと剥がれる。はらりと剥がれた岩肌は、海の底へと沈んだのか。それともまたもや寄ってくる白波に、押し戻されて砂と積もるか。

 海はああして、長い時間を掛けてこの入り江を作ったのだろう。

 いつだか、疑問に思ったことがある。なぜ流儀流派とは、「流れ」という文字を使うのか。

 その理由の片鱗が、なんとなく、掴めた気がした。

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