第二十八話 邂逅

「――――――ふう」

 神子上みこがみ典膳てんぜんの朝は早い。

 鳥が朝を告げるより、朝日あさひ東雲しののめを照らすより、早く起きる。それはなにも、特別早朝になにかをする習慣があるというわけではない。

 夜、床に着く時間が早いというわけでもない。むしろ、典膳は日が暮れてから数刻は起き続けている。それも、特別日暮れに何かをする習慣があるというわけではない。

 朝早いのも夜遅いのも、「そういう体質だから」でしかなかった。

 幼い頃から日と共に起き、月が頂点を傾いた頃に眠る典膳は、他の歳の近い者と比べて、長い時間を生きているようなもの。目が覚めきっている自分より早く起きている者は、寝惚け眼をこする奉公人ぐらいだ。

 朝夜合わせて、一日にして二刻三刻の差。四日七日も経てば一日分長く過ごしているのも同じである。

 それが物心ついてから十数年。典膳が他の者と比べ利口で聡明であるのも、過ごした時の長さが関係しているのだろう。

「……今日も行こうか」

 床の間に―差料に対する敬愛ではなく、一人の武士としての折目として―丁寧に整えた小太刀を手に取り、縁側に出る。

 いつもより暗いと思ったら、どうやら小雨が降っているらしい。昨日の雨は夕ごろ止んだはずだったが、またぶり返したようだ。

 こういう日に真剣を外で振るのはよくないと、典膳は板間に向かう。

 板間はこういう雨の日に、父土佐守が鍛練に使う場だ。しかし雨の日は、土佐守の古傷はよく疼き、修練にならないと使われることは少ない。昨日も、少し剣を振るっただけで終えてしまったそうだ。

 そういうときは、典膳が自由に使って良いとされている。元より、こんな朝早くに土佐守はいないのだが。

 ……いない、はずなのだが

「――――ッ」

 板間の近くまで来て、中に人の気配があることに気付く。

 父のものではない。父の気配は、ここまで熱く、鋭くはない。

 まるで、炎を帯びた灼熱の刀身のような

 あるいは、刀身が灼熱の炎で出来ているかのような。

 あるいは、灼熱の炎が、刀身と化しているかのような。

 そんな魔剣まけんが、妖刀ようとうが、板間そこにある。

 賊か、と思ったが、熱が一際強くなり、火花が散る瞬間、よく聞く音が鳴っている。これは、木刀を振る音だ。

 だが、しかし。

(木刀か? 本当に?)

 空気を斬る音の、なんと鋭利なことか。剣に乗せられた気魄きはくは、鍛練の時に発するものではない。

 父が、これに似たものを発したことはある。苛烈な戦場に臨む前と、熱冷めぬまま帰ってきた後のこと。どちらも戦いの興奮がもたらしたものであり、常より纏えるものではない。

 そんな熱気を纏いながら、鍛練をする者とは――――。

「む、典膳か。早いのだな」

「伊東様?」

 そこにいたのは、一刀斎であった。

 父がなにやら、熱烈に支持している剣客である。典膳も知る古藤田ことうだ勘解由左衛門かげゆざえもんが師と仰ぐ者らしく、その勘解由左衛門からの文を届けに来たらしい。

 なぜ師である一刀斎が使い走りになっているのかは分からないが、父はかなり感激していた。思うに、文に一刀斎と会ってみたいという旨を書いてしまったのだろう。

 それで実際会いに来るのだから、伊東一刀斎という武芸者は人が良いらしい。

 ――――そう、今の瞬間までは思っていた。

「伊東様が、なぜ」

「昨日、御身の父に剣を振る場所がないかたずねたらここを勧められていてな。この時間に目が覚めてやることもなし、素振りでもするかと寄ってみた」

 語りながら木刀を振るが、意識を全く散らしていない。振る剣に、意志がしかと乗っている。

 そして音だけで無く、目で見て分かるものがある。

 剣の振りに、揺れや歪みが全くない。一つの線をえがくように、乱れなく、真っ直ぐと剣が振り下ろされている。

 典膳も、同じように素振りで線をことが出来る。だが自分のそれと一刀斎のそれでは、なにかが大きく違って思えた。

 なにか、居心地の悪さを感じた典膳の手指に力みが入る。

「どうかしたか」

「っ、いえ」

 一刀斎の返事に応じることも出来ないまま、その素振りをじっくりと観察してしまっていた。

 その視線に気付かれたが、典膳は慌てて首を横に振る。

「失礼しました、鍛練の邪魔をしてしまい。私は、別の場所へ行きます」

「構わん。人二人いては出来なくなるほど狭い部屋では無いだろう」

 畳敷きにすれば十畳か。それほどまでに板間は広い。元は軍議のために人を集めるのに使う部屋だ。それだけ広いのは当然である。

「……では、お言葉に甘えさせて戴きます」

 一拍おいて、典膳は部屋の隅に小太刀を置き、備え置いてある木刀を手に取った。一人ならともかく、人がいるところで真剣を振る事に対してどこか忌避感を覚えた。

 一刀斎から離れたところで、異なる方を向き木刀を振るう。

 …………やはり、線は真っ直ぐなぞれている。正面にある障子の竪子たてごと確かに平行だった。

 それでもあの、一刀斎の一閃とはなにかが違う。

 一つ、一つ、また一つ。幾度と剣を振ってみせる。やはり、自分の剣は正しいはずだ。ちゃんと振れている。

 だが。

ッ!」

 横目に見た一刀斎の一振りと較べれば、著しく劣っているように思えてならない。

 自分の剣に、誇りがあるわけではない。父や他の者は己に対して天才だと、見事な才覚の持ち主だと持て囃すが、典膳はただ習ったとおりに剣を操っているだけでいる。

 上手くいかぬ者を見ても、なぜ正しく出来ぬのかと疑うばかり。こんな簡単なことが、なぜ出来ないのかと理解することが出来ない。

 それと同じように、典膳は一刀斎の剣を、理解することが出来なかった。

 自分が行うそれとは、なにかが違っている。

 剣を振る速さ、剣が届く長さ、剣に乗る力、それらに差があり影響するのは当然だろう。剣を磨いてきた年月の差も当然ある。

 しかし、一刀斎の剣には技術や体捌き以外になにかが宿っている。

御身おんみの剣は整っているな。巧みな技倆ぎりょうだ」

「……ありがとうございます」

 それは、父や他の者達に何度も言われてきた言葉である。幼い頃は胸に響き、心に満ちた言葉だが、今となってはそれに、なにかを感じることはなくなっていた。

 だが一刀斎に告げられた「巧み」という言葉には、心が動いた。

 しかしかつて感じたそれではない。身のうらに、心のうちに、とげが立つ。

 決して喜びとは言えない感情が、典膳の中で渦巻いている。喉から胃の腑まで、無数の魚の小骨が無作為に突き刺さっているかのような苛烈すぎる痛痒つうよう感が込み上げる。

 今すぐに、礼を取り下げて否定したい。今まで己は巧者だと他人事のように判じていたのに、初めてのようではなく、己として思ったのだ。

 自分は一刀斎と較べれば――――

「だが巧いだけだ。その若さでそこまで技術を身に付けたのは見事だが、それだけでしかない」

「――――――」

 巧い、だけ。

 称賛しょうさんの言葉の尻に、たった二文字がついたのみ。だというのに、その衝撃はいかほどのものだったのか。

「巧い、だけとは?」

 口から出た言葉は、いったいどこから出て来た言葉なのだろう。頭の中は白ばかりで埋まっているのに、なにかを思う余白が無い。

 意識もせず、ごく自然に、川が海へと流れるように、身体のどこからか滑り出た言葉であった。

「言葉通りだ。御身は剣の腕は冴えている。才も相当なものだろう。どう剣を振れば良いのか理屈を理解している。おれが知る剣客には、才が無くとも術理理合を追い求め、至高の形に仕上げた者もいる」

「だが」、と、一刀斎は言葉を続ける。

「その者らにあって御身にないものがある。御身の剣は、ただ理屈通りに振るっているだけでしかない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る