第二十五話 鳳雛

「フウッ!」

 古藤田ことうだ勘解由左衛門かげゆざえもん俊直としなおは、小田原の屋敷で一人剣の鍛練をしていた。

 師と定めた一刀斎が居らずともその技を深めるため、日々用意していた覚書おぼえがきが役に立つ。

 一刀斎が安房あわに経って二日。もうそろそろあちらに付いた頃だろう。

 安房にいる旧友、神子上みこがみ土佐守とさのかみのことを知った一刀斎が、彼への手紙を持っていくと言い出したときは驚いたが、そも弟子にする代わりに槍の教えを乞うという常識外れの行動をするのが一刀斎であった。

 そうと思えば、文を届けるなど大したことではないだろう。

 ただ一つ、懸念けねんがあるとすれば。

「……彼とは会うことになるだろうな」

 瞳を閉じて思い出す。土佐守の古傷ふるきずが、酷く痛んでいた日のこと。

 剣も握れぬ土佐守に変わって、鍛練のために相対したあの童子どうじ。剣の基礎もしっかりと覚え切れていないだろう年の頃であった。

 だというのに、身の丈に合わせた木刀を握り構えたその姿。その背に浮かぶ、尋常ならざる気魄と闘志。

 手に持つ得物は木刀で間違いなかった。それにも関わらず、勘解由左衛門でさえ「真剣」であると一瞬でも認識し、覚悟を決めてしまうほどの純度と熱を宿していた。齢が十となる前の、剣のいろはを覚え始めたばかりの小僧が。

 一刀斎へと語ったときは、「筋が良い」としか語らなかったが、だがしかし、

神子上みこがみ土佐守とさのかみの、子息」

 それは比類ひるい無き剣の天稟てんぴん

 東国随一、否、日の本全てに誇る武の源泉、香取鹿島の傑物達を見てきた勘解由左衛門の目でもって見てなお、絶秀の剣士となる。そう確信させるほどの天賦てんぷの素質。

 土佐守の腕前をとびと呼びたくはないが、それでもそう呼ばざるを得ない。

 鳶が産んだのは鷹どころか、いつしか天を覆うほどの大鵬たいほうか――――。


 一刀斎が思い出したのは、勘解由左衛門が多少触れた話だ。

 日に日に強くなっているという、神子上土佐守の息子。それがきっとこの少年なのだろう。

 背丈は並程度だが、身体の中心に芯が通っている。それは礼儀の正しさと品行の良さから来るだけのものではない。心身を鍛えたからこそ身に付ける事が出来たものだろう。

 先に元服を迎えたばかりという話からして年の頃は十半ばだろうが、それでも武人としての気質が既に出来上がっているように見えた。

(まさか……)

 じかに、剣を握った姿を見たわけではない。それでも、確信めいた予感が告げている。

 この少年は、「」。

「あの、どうかなさいましたか?」

「――いや」

 数多の強者を見て来た脳漿が、感覚が、なによりこころが、目の前の少年が強者と認めている。

 だがそれを口にするのは、今ではない。剣を持ち、振るう様を見てこそ、その言葉を口にすることが出来るのだ。

「そう、でしたか。では、心身が整いましたら父のところまで私か小姓が案内いたします。……それでは、失礼いたしました」

 深く一礼。後に立ち上がった典膳てんぜんは、襖を開け、振り返りもう一礼、戸を閉めた。

 流れるような所作である。動きに歪み澱みがまるでない。言葉回しといい、礼と勇とを兼ね備えているのだろう。

 そのとき、ふと気付いた。たもとに突っ込んでいた拳を、きつく握り込んでいた。

 何かを掴むように握られたてのひらは炙られるような熱を宿しており、じんわりと、汗で湿っていた。

「…………よもや」

 見ただけで、手に汗を握るなどいつのことか。

 それも相対したわけでも、それどころか剣を握ったところすら見ていないというのにもかかわらずにだ。

 当の本人の一刀斎が、認識できないほどに魂の炎が熱を発している。まだ若い、実力も知らぬ武芸者に対してだ。

「……いや、違うか」

 まだ若い、実力も知らぬ武芸者だからこそかもしれない。

 数多くの武芸者を見て、対峙してきた一刀斎の目と魂をして強者と判じた。それもまだ若い武芸者に対してだ。

 ならばそれはきっと、今のあの少年の実力だけでなく、きっと。

「――――先が楽しみだな」

 今でさえ、こうも燃えるのだから。きっとあの少年の、神子上典膳の行く末はきっと今より遥かに強くなる。

 そう、この手に握られた汗は、であった。


「よもや伊東様本人が来られるとは思っていませんでしたので、こんなものしかご用意出来ませんでしたが……、しかしながらここは海に近く獲れる魚はとても美味い」

「これは、大した持て成しだな」

 なんせぜん文机ふづくえのように大きい。その文机の上に大量に魚の刺身さしみや焼いた魚や煮た魚や魚のなますやとにかく魚尽くしである。

 ――――正直、魚は苦手である。どうにもこうにも陰鬱としていた島での暮らしを思い出す。美味いものはあると思うが苦手ということには変わらない。

 近江おうみ堅田かたたにいたときも似たものだ。朝も夜も菜粥ながゆにフナ、たまに出てくる馳走はマス。こんな日ばかりが毎日続いた。

 やはり食うなら鴨や雉や熊がいい。京で食った獣肉の味噌煮がまた食いたい。

 などと、思いつつ。

「このようなもてなし、せずとも良いのだがな。おれは所詮しょせん使い走りだ」

「いえ、出来る限りのことはさせて戴きたく!」

 当人がやれるだけのことをやり、持て成したいと歓待するのならば、その気持ちを無碍むげにするわけにも行かない。魚は苦手ではあるが、込められた気持ちはありがたい。魚は苦手ではあるが。

「もしや、まだお加減が?」

「いや、そちらはもう快復した。問題ない」

 流石に一刻いっこくと半ば休めば気も収まるというものだ。船に乗ると分かっていたから、朝は何も食わずにいたこともあり腹は減っている。

 献立こんだてはともかく、量に関しては申し分ない。

「では、ぜひお召し上がりくだされ! 味は保証いたしましょう、なんせ獲れたばかりなので!」

「…………では遠慮無く」

 材料の質ではなく料理の腕で保証して欲しかったがそれはもう気に掛けることではなく。

 一刀斎は文机の如き膳の前に座りまず手始めに煮魚をつつく。なるほどたしかに、箸で触れただけでも良質な身をしているのが分かった。これなら自慢に思うだろう。

 食べてみれば厚い肉を噛めば脂と一緒に煮汁が溢れた。魚ではあるが美味いと言う他ない。

「お味はどうか?」

「……うん、味は好みだ」

「それはよかった!」

 ただ材料が好みではない。いや、もう気に掛けないと決めたのだし美味いのだから、もう気にせず勢いに任せて食ってしまおう。刺身は余った煮汁に晒せば多少は誤魔化せるだろう。

「しかし、本当に噂の剣士であるあなたがここに直接来られるとは、思ってもいませんでした。噂では相模より東には滅多に来ないと聞いていたので」

「そうだな、なんつきか前に常陸ひたちに赴いたのが初めてだった。初めの旅が西に向かってのものだったからな、廻国するなら西に、と自然と身体が動いたのだろう」

 米を口の中に放りつつ、土佐守の質問に答える。一刀斎とて香取鹿島という武の流れがあるのは知っていたし、その強さも知っている。しかし不思議とあてのない旅程りょていを立てても、相模より東に行くという発想は出なかった。

「だが、訪れてもいないにも関わらずおれの名が渡っていることにも驚いたが」

「貴方の噂が最初に出たのは六年ほど前のこと、三浦みうらに滞在していた無敗の大陸武芸者を相手に唯一勝ちを奪ったというものでした。しかも、鉄扇てっせん一本で」

「ああ、そういうこともあったな」

 土佐守が言っているのは、十官じっかんとの戦いのことだろう。あのときは甕割を研ぎに出していたから代理の刀を持っていたが、とある騒動で使い物にならなくなって仕方なく鉄扇を用いたのだった。

 あのあと間もなくその船は三浦を離れてしまったようで、ついぞ刀を用いて決闘が出来なかった。それが数少ない悔いの一つである。

「三浦は里見とも縁深い土地であります。お互い港として船乗りが行き来することも多く、そういう大きな事件は伝わるのです」

「情報は海をも越えるか……」

 思えば三島神社に戻ったのも、一刀斎が相模にいるという情報を海伝いで知った信太しんたが迎えに来たからであった。

「それから、また名を聞くようになったのはここ数年、「天下一の剣術遣い」という肩書きも合わせてここまで響くようになりました。外他とだ一刀斎いっとうさいから一刀斎へと姓こそ変わっていましたが、間違いなくあなただと」

「立て看板の効果があったということか。おれの師からの餞別せんべつでな、どこにいようと師のいる近江まで名を轟かせと渡されたものだ」

 からに名を間違われているのが遺憾ではあるが、せっかくだから使わせて貰っている。

 使ったことでより名が広まっているのなら、きっと近江の堅田にも届いているだろう。

「ええ、相当な達人だと。剣聖けんせい弟子でし今世こんせい無双むそうと渾名された大和の武芸者にも勝るとも劣らぬとではと言う話しもあります」

「だとしたら嬉しいのだがな」

 なんせその今世無双に、若かりし頃の一刀斎は為す術もなく敗れている。武を好みながらも一国の長に仕える身でありしがらみも多くそれを嘆いていたが、今でも剣は続けているだろうか。

「いやしかしそれにしても、本当に驚きました。勘解由左衛門が小田原にいると思い出しふと慣れない文で訊ねてみたら本当に縁があったとは」

「文と言えば、御身の子息を見たぞ」

 子息を見た。その一言で今まで和やかだった表情が、笑顔そのまま固まった。

 固まっていたのは数秒で、開かれた口は閉じられ、閉じられた瞼は逆に開く。

 上がっていた口角は真一文字になり、目も皿のように細まって、口の線と平行になった。

「――――そうですか、あの子に。なぜ?」

「疲れているだろうと飲み物を持ってきてくれた。気が利く子息だな。なにより」

 一目見ただけの感想、ではあるが。

「御身の子息、相当腕が立つと見えるぞ」

 細められた目は今度は大きく見開かれ一刀斎の顔へと二つの黒目が真っ直ぐ向いた。

 その瞳は爛々らんらんと、煌々こうこうと、照るように眩かった――――。

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