第十八話 決着まで、刻限はなく

(なんだ……? この感覚は)

 燃え盛る炎のようであった一刀斎いっとうさいが、微動だにしない。

 今まで果敢かかん攻勢こうせいに出ていたにも関わらず、ただたたずんでいる。

 刀は下段、鋭かった眼光も穏やかであり、その立ち姿からは戦意が発する威圧がない。

 全力を、全霊を、全てを掛けていたはずの男が、今までと一転して静謐せいひつとなる。

 しかし伝鬼房でんきぼうの肌に走った感覚は、下手をすれば今まで以上の熱である。

 つい先ほどまで相対していた一刀斎は、大きく立ちおこり、烈しく揺らめく炎が如く。こころを剥き出しにして、それでいながら技は見事に冴え渡り、苛烈な情熱にうなされることなく的確に動いていた。

 そんな今までとは異なる姿、動かぬからといって、到底侮る気にも嗤う気にもならなかった。

 なにせ相手は一刀斎、「天下一」のかたわらにいる男。なにかを仕掛けてくるに違いないのだ。

 一刀斎が懸かり来ない。ならば。

ォォォオオオオオ!」

 伝鬼房が構えを変えて、一刀斎目掛けて野原を蹴った。

 伝鬼房が握る薙刀は、街の構えから直ぐさま新たな構えとなる。それは文字通りの変幻自在、どのようにも変化するのが伝鬼房の得意であり、そこから無数の攻撃が生み出され、相対した相手へと迫る。

 それらの刺撃しげき斬撃ざんげき痛烈つうれつ無比むひ、岩をもとおり大樹をも断つと言って過言ではない。

 そして上段の構えより放たれたそれは迅速に、最短軌道で敵を貫く陽射しの刺突。

 それが一刀斎の額へと真っ直ぐ撃たれて残り一尺。

 もうじき当たるその一瞬、伝鬼房の全身が総毛立つ。肝が、肺が、心の臓が体の内側から暴れ回る。

 意識が怖気おぞけを覚える前に、足を動かしたのは身体のどこぞにあるたましい

 大きく遠くに退しりぞいて目を見開いて前方を見る。

 そこにいたのは木太刀を振り切り残心する一刀斎の姿であり、視線を落とせば、ふところはだけて浮き出る腹の筋に擦過さっかきず

 かわしきることが叶わなかったとそれで気付くがだがしかし、なによりも。

(なんてことだ、起こりがまるでなかったぞ!)

 気も、りきみも、目のやる先も、動く予兆よちょうが、一刀斎にはなにひとつなかった――――。

「…………ッ!!」


 まだ、のこっている。

 まだ、とどこおっている。

 まだ、遅い。

 こころが発した声がまだ意識できた。まだ当然だと思考できた。まだ肉体に伝達が走る感覚がした。

(まだ、削ぎ落とせる)

 つちかった技は既に心身に染み込んでいる。故に思考が、どれが必要か選び取る必要は無い。

 肉体は、ただこころが描いた理想の剣を振るうためにだけ存在するもの。剣を振るのはこころであり、身体が振るうものではない。

 身体が捨てられないというならば、身体の全てにこころを満たせ。全身を走る血脈のように、内に詰まる肉のように、こころを隅々まで行き渡らせろ。

 魂魄こんぱくこそを肉体にしろ。全身すべて全霊すべて変換かえろ。

 あのときのように、一つを成すために、己自身を、炎にせよ。

「…………――――」

 渇いた空気を吸い込んで、腹の底に押し込める。こころほのおに吸気を注ぎ、少しずつ広げていく。

 あふれる熱と余剰の意識は呼気とともに外へと吐きだし、魂を広げる隙間を空けていく。

 魂の真っ芯に残すものはたった一つ。成そうという想いのみ。

 それは必勝ひっしょうでもなく、不敗ふはいでもなく。それよりもっと小さく、それでいて、最も必要なもの。

 即ち。

(――――――斬る)

「…………ッ!!」

 一刀斎のその動きに、伝鬼房は思わず吸い込みかけた息を吐く。

 それも当然。飛び退き距離を取ったはずの一刀斎が、ゆらりと身体を揺らした刹那、気付けば眼前に迫っていたのだから。

 一刀斎が見逃さなかったのは、伝鬼房の呼吸の間隙かんげき

 意識が内に向かう吸気の瞬間。一刀斎の肉体は、ごく自然にその隙を見逃さず突くように動いていた。いや、動かしていた。こころが、身体を動かしていた。

「ッッッ!」

「ッェェイ!」

 一刀斎が振るう剣撃けんげきのその速度は、炎が吐いた火花が散るほど。速く、鋭く、滑らかに。人が動く上でありえる乱れがない。空気の抵抗さえないように、否、空気と空気の合間さえもスルリと抜けて、予測するより早くに刃が到達する。

 それに反応できたのは、ひとえに伝鬼房の武腕が優れている故である。

 ただそれでも、一刀斎が斬撃に乗せ通した威力ちからは並ならぬものである。少しでも気を抜けば、そのまま剛剣を叩き付けることも可能であろう。

「ッチィ!」

「ふぅっっ!」

 受け続けるのは悪手だと、伝鬼房は直ぐさま競り合いを止めて、すれ違うようにして一刀斎の後ろへ抜ける。

 しかし一刀斎の攻撃は止らない。距離を取ろうと直ぐさま詰めてきて、意気を整える間もなく剣を振るってくる。

 ――木太刀たち木薙刀なぎなた寸尺すんしゃくの差は三尺さんしゃく近く。刃圏はけんは明らかにこちらの方が長いはず。

 だがしかしこの間合まあい、一刀斎の方が有している。

 そも間合とは、武具得物の寸尺ばかりを指し示す言葉ではない。その字の通り「間に合う」ことも意味している。攻撃が、防御が、回避が間に合う距離と早さを示すもの。得物だけでなく、拍子や速度なども関わる概念。

 そういう意味言うならば、いまの一刀斎が有する間合は一間二間ではまるで足りない。

 それはもはや、人の形をした気炎きえん。一度燃えれば広がり続ける燎原りょうげんの火のように、止まらず動き続けている。

「く、カハハハ……」

 一刀斎が行っているこれは、技倆ぎりょうだけでなんとかなるものではない。

 剣とは心が振るわせるものであるが、その間には、意識や思考や身体が介在する。それはどれだけ鍛えようと、鍛えるからこそ意識や思考や身体が干渉する。初めに大事と覚えた物はあって当然のものとなって意識の底に沈んでいき、身体の芯に染み込んで、ごく自然に行使していることさえ忘れてしまう。

 しかしそれを思い出し、意識の底から掬い上げたとして上手く行くとは限らない。

 心と、意識と、思考と、身体と、それぞれの調和が崩れて行き詰まることもある。

 だが一刀斎はいま、全てを忘れて、全てを削いで、「心」で直に剣を動かしている。

 それはやろうと思って出来ることなどではない。魂の形からして武人ぶじんでなければ入れぬ領域もの。魂の形を理解しているものだからこそ発揮はっきできる武の究竟くっきょう

 やろうと思って出来ることではないが、この土壇場どたんばで、己の意志でやってのけたとしたならば、伊東一刀斎という男はやはり、天下一の名乗りに羞じるものではなかった。

 これほどまでの武芸者と相対することが出来る。なんと愉快か痛快かと、伝鬼房は笑ってみせる。

 ここで笑うのが井手伝鬼房だと、口の端まで大きく上げて笑ってみせる。

「カー! ハッハッハッハッハッハッハァッ!」

 逃げ続けようと一刀斎はどこまでも追い掛けてくる。距離を取ろうと一刀斎の間合はこの場の全てと言っても良い。

 ならば距離を取る理由はないと、伝鬼房は足を止めて一刀斎に相対する。

 となればこの立ち合い、この後の数合すうあいで全てが決する。

(見逃せん……!)

 ここまで二人の、情熱じょうねつみなぎる立ち合いを見続けた勘解由左衛門かげゆざえもんは、頬を伝う汗を無視して一瞬たりとも視線を反らさず。

 見守るこの目を開き続けるそのために、額に手拭いを巻き付けた。

 歩みの遅い夏の天日が、目に見えて傾くほど続いた二人の天狗てんぐ真剣仕合たちあいは、両者ともに、己をくしてここまできた。

 今まで僅かに伝鬼房へと傾いていた趨勢すうせいは、いまや一刀斎の側に向いている。そのまま一刀斎が勢いのまま食い千切るのか、それとも伝鬼房が首を取るのか。

 互いに死力を賭したこの勝負。互いの得物が鋼であるならば、白熱して溶け落ちるほどの灼熱を帯びたこの戦い。

 決着まで、刻限はなく――――。

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