第十五話 紙一重の天下一

 その日の季節がなんであったかは、伝鬼房でんきぼうは分からない。

 冬の日のように、やたらと蒼穹そうきゅうが近かった。

 だが夏の日のように、やたらと太陽が照りつけていた。

 しかし春の日のように、やたらと心地良い陽気だった。

 そうして秋の日のように、やたらとうらがなしい心持ちだった。

 までの記憶もない。夜も朝も昼もなく、かつての焼討やきうちあとが残るやしろはしでひたすらに剣を振るっていた。

 肺と口を繋ぐ道は常に開いたまま、飯が通る隙間など無く、呼気こき吸気きゅうきを繰り返す。

 焼けた血は熱いまま血管を削りながら走り抜け、体中の肉が脆い麻糸のように千切れていくのが分かる。

 しかと繋がっていたはずの骨が軋んで外れそうになっている。

 心をはつり、身をけずり、なにかに囚われたように、もはや体が、剣と一体化したかと思えた瞬間に、その御坊ごぼうは現われた。

 修験者しゅげんしゃが如き見てくれながら、手に持つのは錫杖しゃくじょうではなく、僧兵が持つべき大薙刀おおなぎなた

 どう見ても破戒僧はかいそうか魔道に堕ちた山伏やまぶしだというのに、纏う気配は灼然いやちことし、光を負っているかのようだった。

 刹那せつな伝鬼房は、いや、伝鬼房のこころは、その御坊へと斬り掛かり――――。


ェェエエエ!!」

 二本目は、未だ続いている。

 一刀斎いっとうさいが感じた己と伝鬼房の間にある確かな「差」。

 それが本当に、「斬るべきものを斬ったか否か」であるかは分からない。

 なんであろうと「差」があることに違いはなく、一刀斎はそれを埋めるかのように、こころに全てを注ぎ込んで、伝鬼房へと果敢かかんに進む。

 得物が有する刃圏はけんにおいては、薙刀を有するあちらが有利。

 だからこそ間を置かせるわけにはいかない。伝鬼房に有利な間をやらず、己を活かせる間に立ち続ける。

「ほとほと呆れた体力であるな天下一殿! この炎天下の元それほどまでに烈しく動くことを苦にしないとは、延々燃える炎のようだ!!」

「余裕なのはそちらも同じようだがなっ」

 伝鬼房は立ち合いが始まってから、獰猛な笑顔を保っている。

 武を振るうことに対する強烈な歓喜かんきが伝鬼房の中に満ちているのが手に取るように分かった。

 見開かれた黒い目は爛々と燃えており、燃える精神うちがわがありのまま現われているよう。

 ここまで攻め立てているにも関わらず、伝鬼房のきもは揺るぐことなく腹の底に鎮座しており、重心のかなめとなって一部の隙も生み出さない。

 だがしかし、だからといって惑い驚嘆きょうたんする理由にはならない。

 こうして最初に相対したときから、伝鬼房が有する強者の圧は感じていた。

 だから当然なのだ。己の有する武の腕に、絶対の信頼と誇りを伝鬼房は抱いている。己の技を疑わぬから、ああして瞳を燃やせる。趨勢すうせいの不利を気にせずに、笑っていられる。

 ただじゅんとした精神のまま、時としてわらべのような愉快さを胸裡に秘めて、伝鬼房はこの場に立ち一刀斎と相対していた。

 ただただ呑気のんきに見えて、己の調子を崩さず保って決して譲らない。

 一刀斎は間合いを奪い続けているがしかし、伝鬼房がの調子だけが奪えずにいた。

ゥゥン!!」

ェイ!」

 そして残る調子が質が悪い。

 奪い続けてきた距離を、たやすく取り返しに来る。

 薙刀とは、短く持てばある程度の近間ならば対応出来るらしい。それが薙刀の特徴なのか、それとも長い柄を気にせず振るう伝鬼房の成せる技なのかはともかく、刀の距離でのこの立ち回りを見れば、刀剣の腕も相当なものであるというのも察せられた。

「御身は、剣も得意かっ」

「無論のことよ! 薙刀を始めたのはここ数年のこと! とはいえ今では剣に次ぐ腕であるがなっっ!!」

「どこかで聞いた話だ!」

 新当流はその流儀の中に、槍を初めとした長物があるという。

 実際一刀斎が初めて見た新当流は槍の業であり、その槍の業はまるで黒雲より駆ける雷のようであった。

 そして雷を巧みに操る武芸者はこの日輪の薙刀使いのように、槍より刀の方が得意であると雷を発しておきながらのたまっていた。

 武は東より上るものだと一刀斎より過去の誰かが称したらしいが、その言葉に対してはやはりなと感心しか出来ない。

 京やその周辺の武人にも、相当な達者が数多くいる。だが新当流の、東国の武術の遣い手はみな、一刀斎を驚嘆きょうたんさせる。

「そういう、天下一殿はどうなのだ!?」

「剣以外の能はないっ!」

 悲しいことに、その通り。

 弟子に取った勘解由左衛門より槍を学んでいるが、まだ日も浅く手応えもコツも掴めていない。

 伝鬼房が語った数年がどれほどのものかは分からないが、恐らく同じ年月を費やしたところで、その薙刀と並ぶ腕になるとは思えない。

 伝鬼房が開眼かいがんした薙刀の業はそれほどまでに冴え渡っていた。

 天下一と呼ばれようと、広がる天下は果てしない。天下にあまねく武芸者には、天下一に指を掛けるものもいる。一刀斎がかつて、「今世無双」の肩口に剣を掠めたように。

 天下一とは紙一重。高めなければすぐ下の武芸者に追い越されるのは当然のこと。

 だというならば、天下一と名乗るのならば、天下を高く押し上げてゆくのが役目であろう。一刀斎が勘解由左衛門から槍を学んでいるのも、全て己を高めるためである。

 一刀斎には、剣以外の能はない。何十年と振り続け、ひたすらに身に付けてきた刀術の数々。それだけではまだ足りない。天下一を、より高みへと押し上げるにはまだ足りない。

 その不足たらぬはきっと、この天下に広く遍く武を飲み下してこそ埋めていけるものなのだ。

 ならばこそこの達人との戦いは、絶群の薙刀使いである伝鬼房との戦いは一刀斎にとって踏破するべき道であり、この達人は、一刀斎が斬り越えるべきなのだ。

 ああそうだ、一刀斎という名の天下一は、薄い紙の上に立つようなもの。気付けば落ちるやもしれないもの。

 ならば、この胸に抱く矜持ほこりは――――今は、不要いらぬ。

「ッ!」

「むっ……!?」

 斬り合いの中、一刀斎が唐突に後ろに飛び退いた。

 あれほどまでに奪おうとし、実際に奪われていた間合いをさっくり渡され、さしもの伝鬼房も目を見開いた。

 両者ともに一手入ったわけではない。入ったわけではない以上、これで終いと片付けることなど出来ようもない。

 二人の戦いを見ていた勘解由左衛門は、いったいどうしたと己の師を見遣る。

 剣を真っ直ぐと正眼に構えるその姿はごく自然。力みもなく気負いもなく、それまで発していた意気の圧もない。

 例えるならばその姿は、無風の中でただ静かに、揺らぐことなく燃える炎のような立ち姿。

 それは恐れることのない、穏やかな立ち姿。

 だがしかし、見れば見るほどに「おそれ」が込み上がってくる。

 いつもは饒舌で、立ち合いの最中でも隙あらば口を開いて叫ぶが如き大音声だいおんじょうの持ち主である伝鬼房もまた、珍しく口を閉ざしていた。

「…………ふむ、雰囲気が変わったな、天下一殿」

躍起やっきになっていたからな。熱にうなされていたようだ」

「熱に魘されていたと? 俺には、今の方が熱くなっているように見えるぞ?」

 意ではなく、こころが。冷徹そうな顔をして、魂が灼熱に燃えている。

 握る木太刀が今にも燃えて灰になりそうな、それが真剣であったなら、溶けて地面に滴りそうな。

 得物に通るこころの熱は、先ほどの比ではないように見えた。

「先ほども相当だったが、はてさていったいどういう風の吹いたなら、炎がそう静かに強くなるのかね?」

「天下一を、理由にするのを止めただけだ」

 天下一と認められる以前から、一刀斎は剣を振り続けてきた。

 天下一という矜持はいつしか、過剰なたきぎとなっていた。

 天下一であろうとも、なかろうとも、剣を振るうことに変わりはないのに。

 一刀斎が武器を取る。その理由はいつだって一つ。

「おれはただおれのために、業を研ぎ澄ませればい。天下一のためではなく、おれのためにだ」

「…………カカ!」

 こちらが投げつけた言葉を受けて、伝鬼房は口の端を吊り上げて笑って見せる。

 伝鬼房がいかなるものを見て、いかようにして武技を身に付けたかは分からない。

 故にどのような思考をして、魂はどのように働くのかをよく知らない。

 だが、そんなことは知らずとも良いだろう。

「ならば俺もいつまでも、天下一殿と呼んでいる場合ではなかろうな! ――さあ改めて仕合おうか、伊東一刀斎殿ッ!!」

 そんなことは、戦えば自ずと見えるのだから。

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