第八話 青い空の白を見上げ

近江おうみ堅田かたた、ですか」

「ああ、剣士としてのおれは、そこで生まれた。外他とだ一刀斎いっとうさいとしてな」

 猩々しょうじょう色をした蜻蛉とんぼが、白い太陽の下を横切った。街外れの田んぼからこの市中までわざわざ飛んできたのだろう。

 ここまでずいぶん、遠かったに違いない。

伊豆いず伊東いとうの三島神社が本拠ほんきょと聞いていましたが。私も赴きましたが」

「拾われた神社の宮司ぐうじが堅田の出でな。その縁で印牧かねまき自斎じさいを紹介された。剣の基礎はその宮司に教わっていた。……少し騒動を起こしてな、しばらく離れざるを得ない事態になってな」

 血気けっきはやった若気わかげいたり。初めて人を斬り殺し、この甕割を振るった夜のこと。

 恩ある相手の心に傷を負わせてしまったのが心残りであるが、そこから始まった繋がりもある。

 良いものだったとは決して言えないし、明らかに悪いものであったが、人生の岐路きろとはそういうものかもしれない。

 悪しきことが良きに繋がることも、多分にある。

「三島神社に入る前はなにを?」

「ろくな人生ではなかった」

 目線は向けず、心だけをに向ける。

 東の大海の上に浮かぶ、小さな島。湿気しけた海風がよどんだ空気を吹き寄せて、辛気臭く陰気な気配で満ちた漁村。

 火を噴く山があるせいで大地が揺れて騒がしい夜も多く、なによりも空が、酷く小さかった。

 あの島は一刀斎にとっての生地ではあるが、決して故郷と呼びたくなるようなものではなかった。

 父母ふぼの骨と墓も島を出た日の噴火に飲まれてしまっただろうし、浸れるような感慨もなく、馳せるような思いもない。

 ですらない、ただの弥五郎はもういないのだ。

 ――――ただ。

「良い経験ではあった」

 父親に託された薪割りが、剣の根幹となっている。あの島での人付き合いは面倒極まるものであったが、それ以外においては、今に良く役立っていると思う。

「そういえば、勘解由左衛門殿はかつて安房あわにいたと聞いたが」

「ええ、安房の里見さとみに仕えておりました。六年ほど前に当時の当主が鬼籍に入り、跡目争いで家中が不穏になりまして……それでどうも居心地が悪くなり飛び出した次第です。そして今となってはこの通り、先代先々代の里見が争い続けた北条家で武を教えています」

「ほう、そうだったか」

 生真面目な気質をしているが、情までは深くないらしい。

 一刀斎はかつて武士と呼ばれる存在と相対したことがある。滅私の忠心でもって主家に献身することで磨かれた武は、優れたものだったと記憶している。ただ一刀斎には、武芸者には出来ない生き方だ。

 そういう点で言えばやはり勘解由左衛門は武芸者なのだろう。かつての主家が目の仇にして、長きに渡り敵対してきた国に仕えているのだから。

「まあ、今は上野こうずけに兵が出払っているので、指南する相手も主や居残りの家臣たちの側仕え十数人。正午を跨ぐ頃には終わりますが」

「なるほどな」

 どうやらこの小田原での生活は、思った以上に充実したものであるらしい。

 この数日勘解由左衛門の屋敷に間借しているが、勘解由左衛門は朝早くに登城しても日が高い内に帰ってきて、剣の鍛練を始めている。

 武術指南として呼ばれた勘解由左衛門は、それ以上のことを求められてはいないのだろう。

「思うがままの時間が過ごせるというのは気楽なものだな」

「日々を悠々と過ごすあなたにそう言われると、真にその通りだと思います」

「言われてみればその通りか」

 一刀斎は仕官の約束こそしたことがあるものの、その約束した相手が死んでしまったことでその願いは果たせなくなっている。

 それ以来、いやそれより以前からして一刀斎は誰かに仕えようと思ったことはないし、この剣腕けんわんもひたすら剣を鍛えてきたもの。

 各国の大名やら家臣やらに売り出すために身に付けたものではなく、わざわざ戦場に赴いて多く敵を屠るために使おうとも思わない。

 一刀斎はそんなものとは無縁な、自由な日々を生きている。気が向いたときに拠点である三島神社を出て、好きなように廻国修行を行っている。

 かつて二人の剣士が、一刀斎を指して「自由になれる存在だ」と言った。

 本当に、言われた通りだ。一刀斎はこの通り、気儘に生きている。

「上野で戦をしているというのに、小田原おだわらは平和そのものだな」

「その上野でも、もう二月ふたつきは睨み合いのまま。ぶつかり合うこともほとんどないそうで。尾張周辺でも争いが起きているらしく、北条も先方も、そちらの動向もうかがっているのでしょう」

「戦というのはまっこと厄介だな」

 不謹慎かもしれないが、本当に気儘に過ごせるこの身の上はありがたいものだと改めて思う。

 軍議ぐんぎとは甚だ面倒臭く、に多少の間参加しただけでも気苦労が積もるものだ。

 やはり、仕官する気はまるで起きない。

「そういえば上様が、一刀斎殿と会いたいと言っていましたな」

「断れるか」

 内容を聞くまでもなく、直裁ちょくさい的に突き付けた。返す刃のあまりの速さに、勘解由左衛門は目を丸くする。

 とはいえ共に暮らして数日は経っている。一刀斎の返事が尋常でなく早いことは、その間に身に染みていて、すぐに気を取り直す。

「別に、仕官の誘いではないようですよ。ただ、会ってみたいというだけです」

「口ではそう言っているかもしれんがな……」

 もう勘解由左衛門が武術指南としているのだから有り得ない話かもしれないが、一度仕官に誘われた身、また下れと言われるやも知れない。

 と言うより、ただ面倒だ。

「まあ、私も上様も無理にとは言いません。その内、機会があれば」

「気が向けばな」

 向くことがあるのかどうかはサッパリ分からないが。

「……ああところで、一番気になっていたことを忘れていました。一刀斎殿がかつて見たという、新当流というのは?」

「伊勢の雲林院うじい松軒しょうけんという男だ。刀槍の技、どちらにも秀でていた」

「――――――――なんと、雲林院殿とお知り合いだったとは」

 一刀斎が口に出した名前を聞いて、勘解由左衛門は大きく目を見開いた。眉は額に乗らんばかりに上がっていて、下瞼は頬骨ほおぼねまで下がらんばかりである。

 勘解由左衛門の活動地はこの関東。松軒の住む伊勢からは、遠く離れているはずなのだが。

「知っている名か?」

「無論です。雲林院松軒殿は新当流が祖である塚原様に認められた、一国に一人どころか、五畿七道の一つずつに一人いるかどうかの手練の一人。新当流は多くの者に親しまれておりますが、その分、松軒殿のような優れた武芸者はなかなかおりません」

「…………そうだろうな」

 松軒の振るう刀槍は、武の窮極の一であったろう。その槍は雷光の如く迸って相対する者のことごとくを穿ち貫くほどのもの。

 全身の筋肉にくが連動し、その刺撃しげきには技の起こりもなく。唐突に現われては人を撃ち抜く、文字通りのいかずちである。

「松軒の槍の業は見事と言うほか無かったが、本来の得物は刀だとも言っていたな。しばらく後に剣術を見る機会もあり、その意味も分かった。それに……」

「それに?」

「いまのおれがあるのは、松軒のお陰でもある」

 研ぎ澄まされた、綺麗な剣。一刀斎が一つの目標として置いているものである。

 「武は綺麗なもの」と、窮めれば窮めるほどに、清められてくものだと、他ならぬ雲林院松軒が教えてくれた理念りねんである。

 雲林院松軒は一刀斎にとって自分の師である自斎じさいのような、格上の剣士であった。それも、遙か格上の武芸者である。

 縁者以外で初めて出会った「外」の武芸者が、心身ともに磨かれた剣客であったのは、類い希な僥倖ぎょうこうであっただろう。

「しかしながら、長物の腕ならば勘解由左衛門殿も見事なものだろう。それほどの槍の持ち主ならば、松軒にも並ぶのではないか?」

「…………長物の腕、ですか」

 ふと、勘解由左衛門は天を見上げた。

 同じように上を見遣るが、そこにあるのは澱みも濁りもない爽快なあお

 そしてそこに浮かぶ、丸くかがやく真夏の天日てんじつである。

「――――ええたしかに、鑓の業は私の自慢ではあります。しかしながら、一刀斎殿。上には上が居ます」

 勘解由左衛門は目を細め、天日を見ている。

 熱光ねっこうに瞳を焼かれぬためか、あるいは、その熱光にこそ焦がれている故か。

 勘解由左衛門が語る「上」とは漠然とした「どこかの誰か」などではない。正にあの天日のように、顕然けんぜん存在るものを指している。

「勘解由左衛門殿?」

「…………さて、話し込んでしまいましたな。そろそろ身体を動かさねばなりませぬまい! 木太刀と木槍を持って参ります!」

 名を呼んだ次の瞬間に、勘解由左衛門は空と天日から目を下ろし、稽古道具を仕舞っている蔵へと歩いて行く。

 木太刀と木槍を持ってくると語っていたその横顔は、いつもの好漢こうかん然としたものに戻っていた。

「……ふむ……」

 一人残された一刀斎は、勘解由左衛門の代わりに空を見上げる。

 その目付きは睨むように、見定めるように。白くまばゆい太陽へ、しかと向けられていた。

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