閑話幕外
幕外 一
天文十六年、その年の秋は
しかし秋の静けさなど、この戦場には存在しない。
「逃げろ早く川へ!」
「船がねえもういっぱいで乗れねえぞ!」
「ギャァァァァ!!」
「将が先だ泳いでいけ!」
「阿呆が! こんな荒川生身で渡れるものかよ!」
「戦え、逃げるな、戦えぇぇぇ!!!」
美濃と尾張のちょうど境、木曽川が流れる野っ原に、木枯らしも潰す怒号が響く。
日も暮れて尾張へと引き返す織田勢に、斎藤軍は大軍にて奇襲を仕掛けたのである。
織田勢は昼の間に、斎藤の稲葉山城下を始めに多くの町を焼き払ったが、その恨み
「
「まだだ! 大将が渡りきるまで抑え込む!!」
逃げ行く
平時は船頭をしている男は、血に黒く染まった
しかしそれでも。
「ぐぬぁあああ!」
「っ、船頭!?」
押し寄せる敵の数には、抗えない。
斎藤勢の振り上げた長巻で、船頭の男の腕が飛んだ。その悲鳴に、気を取られれば。
「ご、がぉ……!」
「千、秋殿!!」
先程打ち放った矢が、喉仏に返ってきた。
敵が矢を拾って自らのものにしたのだろう。直後に飛来したもう一本の矢が、眉間ごと左目を射貫く。血だけでなく、
「ぐ、おぉおおおおおおお!!」
船頭は雇われ雑兵である。織田家、千秋家に忠を通す義理はない。
だがしかし、
忠がなかろうと、信がある。
残った片腕で破れかぶれに櫂を振れば、面白いように敵が退き打ちのめす。
それでもそれは長くは持たず。
「キェエエアアアアア!」
「ッ!」
櫂より長いその長刀を、やり過ごす術など男にはない。
ここで己も終わりならば、最後の最後まで睨み付けてやろうと目を見開いた。
――その見開いた目で、見たものは。
「
前に割り込んできた男の、大上段からの兜割り。
そう、正に兜割り。
手に携えた
刀身は広く、
男は幻のような現実を目の当たりにし、見開く瞼の意味が変わる。
「ケェエエエエエイ!!」
「カァアアアアアアッッ」
混乱した戦場、突如現われた影だろうと敵は敵。疑問など頭の内を満たす血の底に沈み興奮と狂気に潰される。
斎藤勢の兵卒二人が、大太刀の男に同時に斬り掛かる。
しかし。
「
大太刀の男は今し方斬り捨てた男から長刀を奪い流れるように柄を振るう。
瞬き一つ終えるより早く、長刀は兵卒二人の首を刎ねる。
剛力にして
この混乱と興奮と狂気の場でその男は、どこまでも静かだった。
男の異質さを目撃し、斎藤勢から溺れ消えたはずの疑問や恐怖や困惑が浮かび上がってきた。
瞬間にして首塚の
だがそれも一瞬で。
「オ、オォオオォオォォォオオオ!」
どちらにしろ、やらなければ、死ぬ。斎藤勢がそう悟ったのはほぼ同時。
五、六人いた男たちが、大太刀の男に殺到する。
「――
大太刀の男は、それでも怯むことはなく。
長刀を捨てて両側に倒れる男共から一振りずつ刀を
そこから先は、驚くほどに鮮やかだった。
一振り一殺。軽やかに、
その強さは、もはや人知を越えている。
終始その姿を見続けた船頭の目は、秋の風で完全に乾いていた。
「…………あ、あんたは」
「命拾いしたな」
飛んできた声はそれまた意外で。
「申し遅れた。俺は
大太刀の男は、
とうてい、名のある
「……命拾いなど、したところで……! この腕では、もはや船さえ動かせず……! 将の一人も守り切れず生き恥をさらし……これでは、死んだ方が…………!!」
「そういうことをいうものじゃあないさ。――――人が死ぬのは、やるべきことが全部終わった時だ。死ななかったということは、アンタにもまだやることが残っているんだろうよ」
悔しさに膝を殴りつければ、そんな励ましを向けられる。
あれほどの
「……あんた、名前は」
「おっと、そういえば名乗りがまだだったか。……
「ふう……疲れた」
まるで小坊主が朝の雑務を終わらせて、
すると。
「おう、お勤めご苦労さん」
縁側から、まだ若いのに酒焼けした声。ふとそちらを見れば、無精髭を散らかして、むさくるしい胸毛を出してる男がいた。
「おや
真っ昼間から甕を抱いて寝転がる姿はぐうたらオヤジそのものだが、その実、富田流の技に精通し、この越前朝倉家内では五指に入る剣客の一人である。
「ああ、
「分かれたとはいえ親類だからな。その上、殿の頼みとあっては応じるしかあるまいさ」
太祖の代より仕え、今も一つは
助右衛門らは
しかしその剣腕は、太祖の代よりこの地に根付いた中条流、富田流を能く修めており、こと通家は越前を代表する
そして通家を越えるとさえ噂されるのが、助右衛門である。
朝倉家中において並ぶものなき
それが
「…………
「
助右衛門の後から現われたのは、助右衛門の子、通家の甥である
眉は墨を素早く払ったようにキリとしているが、目がなんとも眠たげで、あまり覇気を感じない。
それでも六尺ほどあるその
「孫次郎に稽古を付けていた。筋は良いのにやる気がまるでない。今日もああだこうだ理由を付けて逃げた」
「様を付けろ。いつかは仕える相手だぞ」
孫次郎とは、朝倉弾正左衛門尉の長子であり、次期当主だ。
弥二郎は年が近いこともあり、剣の稽古をつけているが、それがとにかく荒かった。
主の子だろうが後の主だろうが、そんなこともお構いなく。隙さえあれば全力で打ち付け、
次期当主にそんな振る舞いをするものだから、余計に立場が悪くなる。
「人には向き不向きってもんがある。孫次郎はあれだ、剣を覚えたところで、気が弱くて握れやしねえさ」
そういう通家の口振りには、
強くなろうとしない孫次郎に、一切の興味を持っていない。
全くろくでもない家族だと、助右衛門は苦笑した。
そのろくでもない家族の中に、自分をしっかり勘定に入れて。
「
「せつ」
そんな穀潰し男三人の耳に、溜め息交じりの呆れ声。助右衛門の嫁であるせつだ。
つまりは通家にとっては妹で、弥二郎にとっては母である。
せつは大きくなった腹を温めるように、打掛をより被る。
「せつ、
「まだ男子か女子か分からないのに、勝手に呼ぶものじゃあないですよ、あなた。……まあ、あなた達がそういう気質なのは昔から変わらないのは知っていますもの。それがダメだとは言いませんわ」
自らの腹越しに我が子を撫でるせつの表情は、口振りに反して慈しみに満ちている。
この
そんなところがそっくりであり、その言葉と感情の差異が、助右衛門は好いていた。
助右衛門の一門は、確かに国に益をなさない、実もない家である。
ただそれでも助右衛門は、己の家族を、好いていた。
――――掛け替えのないものだと、剣の道と同じほどに好いていたのだ。
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